まちかど学問のすゝめ
広大で肥沃なマージナル領野
《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。
● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 東畑開人:1983年生まれ、十文字学園女子大学准教授
常連さん
今回は、伏見区の龍谷大学深草キャンパスに「にわかカフェ」が急設されました。お客さまは、『居るのはつらいよ』などの著書で人気を博す東畑開人さんです。わたしは十数年まえ彼としょっちゅう「おでん屋さん」談義をしていましたが、カフェ談義は初めてです。素面の開人クンに興味津々です。――それから今日は……木立の文庫さんのインターン・スタッフの姿も。この談義のあとに、とっておきのパフォーマンスを見せてくれるそうです!
村井さん
はじめまして。
東畑さん
はい。はじめまして、ですね……。お話しできて光栄です。
村井さん
今回は私が大会長をつとめます第26回「多文化間精神医学会」学術総会で東畑さんが「文化と心理療法」という教育講演をしてくださるということで、その前の時間をカフェ・ブレイクに設定させてもらいました。
東畑さん
ありがとうございます。じつはこの学会には沖縄にいた頃から所属しておりまして、刺激を受けてきました。
どこに立って「もうひとつの声」を聴く?
村井さん
東畑さんの本、読ませてもらいましたよ。社会のなかでの”ケア”ということを改めて考えてみるきっかけになりました。「真ん中と周縁」「既存のオフィシャルなものとそれに替わるオルタナティヴなもの」という視点が参照項になりますね。
東畑さん
“心をいかに見るか”をめぐっての、真ん中と周縁ですね。精神医学って、かなり早い段階から、オルタナティヴなものと戦ってきたと思うんです。いかにオルタナティヴなものを制圧して、公的なものを確立するかが大事なテーマでした。これに対して、臨床心理学というのは、河合隼雄先生がそうですけれども、オルタナティヴなものを引き受けようとしてきました。
村井さん
そうですね、そうですね。
東畑さん
そういう大きな流れがある。ただしこの十年は臨床心理学も、オルタナティヴなものではなくて、オフィシャルなものとしてやっていくことを引き受けようとしてきました。公認心理師法の成立はその象徴ですね。
だけど、心を扱おうとするときには、どうしてもオフィシャルなものの見方だけでは限界があるように思います。というのも、心の問題を抱えている人のなかには、オフィシャルな生き方に傷ついたり、ついていけなくなって、オルタナティヴな生き方を必要とすることがあるからです。
あるいは、こうも言えるかもしれません。心理学とは心のなかのオフィシャルな声だけではなく、オルタナティヴな声に耳を傾け、その二つを調整する仕事でもあります。どうしても、周縁の世界へと開かれている必要がある仕事だと思うんですね。
村井さん
精神医学にもそうした側面はあって、精神科は八割ぐらいがおそらく本流で、二割ぐらいがオルタナティヴなのではないでしょうか。つまり、精神医学にも、いくつかの新しい手法というかオルタナティヴなスタンスが採り入れられているのですが、それは東畑さんが言われる「ケア」ですよね?
それはそれで、精神医学のなかにしっかりあるべきだと思っています。ただ、そうしたオルタナティヴな側面を、本流としての医療のなかに無理矢理に位置づける、というのではなく……。
東畑さん
なるほど。
村井さん
せっかくオルタナティヴの良さがあるのに、大規模臨床試験で薬物療法とその効果を比較してみたり、脳画像でその証拠らしきものを見せてみたり、無理矢理にサイエンスのフォーマットに乗せようとすることはないように思うんですよね。そういう意味では、臨床心理学にもやっぱり同じような構図があるのかな?と思うんです。本流とオルタナティヴという……。
東畑さん
確かに。
村井さん
ただ、その割合が、オルタナティヴのほうが多いんじゃないかな。「主たる活動の場は外にある」という位置づけはどうですか?
東畑さん
精神医学にせよ心理学にせよ、つまりニコラス・ローズのいう‘Psy’の学問は、オルタナティヴなものがオフィシャルなものになろうと、闘争し運動するカルチャ―だと思うんですね。それは歴史上繰り返されてきたことです。というのも、僕らの仕事は半分は科学と面を接していて、もう半分は宗教と接しているからです。脳と霊の間に、心があると言ってもいいかもしれません。
ただ、その中間というのは、居心地が悪いものだと思うんです。そして、そこに居直ってしまうと、カルトのように閉じられたものになりがちだという事情もあります。中間性というのはクリエイティヴであるということでもあるはずですけど、それを維持するためには絶えず闘争しなきゃいけないということかもしれませんね。
村井さん
ただ、そのカルトとかの「真のオルタナティヴ」の人は、正統「に対する」オルタナティヴという自覚がないのではないんじゃないですか? 自分たちの「正統に対する位置づけ」を自覚したオルタナティヴというのは、そんな不健全にはならないような気はするんですけど。
東畑さん
本当はそうだと思います。だけど、「オルタナティヴです」というアイデンティティにはなかなか安定性がないのかもしれないですね。代替療法とかはどうなんでしょう?
村井さん
その代替療法もそうです。主流にとって代わろうとすると、それは医療制度のなかで活動することになるので、規制も罰則もとても厳しい。オルタナティヴというのは規制がもっと緩くて、もっと自由にやれるものでいいのではないでしょうか? 緩やかで広い基準でやっている人が、無理に厳しい基準に自分を合わせようとすると、非常に窮屈で、時にはとても滑稽なことになる。
もちろん、オルタナティヴといっても、何の基準も無いということではなくて、そこには普通の意味での「常識」とか、そういう広い基準がありますよね?
東畑さん
はい、コモンセンスがあって……。
村井さん
良心とか……。逆に言うと、そういうちょっと広めの基準を想定すれば、デイケアでのケアなどの定義や概念もできそうな気がします。
東畑さん
オフィシャルなものの管理には服さないけれども、社会性を失わない良識はある。多分、それを支えるのが、広い意味での人文社会科学の感性なのだと思うんですね。コモンセンスと批判精神を宿した自己技術みたいなものとしての「学問」が、人間の生き方の多様性を包摂するために必要なのではないかということですね。
村井さん
基準の狭い/広い、厳しい/緩いには、スライディング・スケールみたいなところがありますよね。たとえば医学という枠組のなかでも、精神科医が精神療法とか薬物療法を行う場合よりも、もって侵襲的な外科治療のほうがより厳しいですよね。そういうふうなスケールがあって、その裾野のもう少し緩いところに、おそらく、広い意味での心理療法とか、そういうものもある。ただし「何でもありではない」というように位置づけられないでしょうか。
東畑さん
なるほど。
村井さん
そういう心理療法へのニーズって、非常に大きいように思います。そこに「エビデンス」ということを無理に持ち出して、スライディング・スケールの狭いほうを目指さなくてもよいような気がするのですが……。
怪しげなものと 常識的なもの
東畑さん
そうした「枠組」間の移動めぐる話は、精神科医療にもありそうですね。
村井さん
そうですね。たとえばアメリカでは、いわゆるサイカイアトリー(psychiatry)と、ビヘイヴィアル・ヘルス(behavioral health)というのは、基本的には分かれてきています。よい睡眠を確保して健康的な食事を摂って運動をすればいい、という常識的な意味での「心の健康」と精神医学は、分けておかないと、話がごちゃごちゃになります。ビヘイヴィアル・ヘルスにはものすごく広がりがありますから。
たぶん同じことが、臨床心理の専門家が患者さんに接するときに、起こっているのではないですか? 本当に強い専門性を要する、つまり医療と重なり合うような面と、そうではなくて、非常に広い意味での「心のビヘイヴィアル・ヘルス」を扱う面が、あるのではないかと思うんですね。
東畑さん
はいはい、はいはい、はいはい。
村井さん
日本の精神医学ではこのあたりがまだ十分に分けられていないところがあって、ついつい拡大路線をとってしまい、ビヘイヴィアル路線にどんどん踏み込んでしまう。例えば、ゲーム依存症が「病気」になり、そして、うつ病も、その裾野がどんどん広がっていきます。……こうした拡大路線の背後には、自分の業界の拡大したい、という無意識的なポリティカルな側面もあるのかもしれません。
東畑さん
確かに。
村井さん
だけど、こうしたことは、概念的にはやはりどこかおかしいのではと思っているわけです。
東畑さん
心の治療におけるオフィシャルとオルタナティヴの分別にはどうしてもポリティカルな側面があります。わかりやすいのが中国です。最近、Li Zhangの“Anxious China”という本を読んでいたんですが、心理療法は文化大革命のときには危険思想でしたが、経済開放が進んでいくと、オフィシャルなものとして認められ広がっていきます。社会がどうあるかが、心をめぐる言説を深く規定しています。
もっと複雑なことに、オフィシャルとオルタナティヴの線引きは、臨床現場によっても異なります。たとえば、医療領域における価値は「健康」にありますが、教育領域では「成長」という価値が入ってきますね。心をめぐる知の“はみ出る”部分は、マクロにもミクロにも社会的な文脈によって変わってくる……。
村井さん
かつては精神医学の心の治療の中心から外れて“はみ出る”ものには、それこそカルトとか、若干怪しげなイメージがあったんだと思います。ところが最近では、ど真ん中の精神医学から外れるものの大半は、ビヘイヴィアル・ヘルスのみたいなことになってきていて、なんと、これは怪しげなところはまったくなくて、きわめて普通のことですよね? 逆に普通過ぎて、専門性を発揮できない可能性がある、という問題が残りそうですね。
東畑さん
ああ、そういうことですよね。うんうん、うん。
村井さん
そう考えると、真ん中の精神医学はふたつの極と接しているように見えてきます。ひとつは「怪しげ」な極、もうひとつは「あまりにも常識的過ぎて専門家が必要でない」ような極。
東畑さん
ふたつ目の極というのはつまり“人生”というものと接しているようなところですよね。みんな人生を持っているわけだから、専門家の言っていることが「みんな言っていること」と変わらなくなっちゃう、という問題があります。この問題について、村井先生は「リカバリー1,2,3」というように書いておられます。
村井さん
リカバリー1というのは医学的なものなので、そこでは完全に専門性が要求されます。その外側に書いたリカバリー2と3は、ほぼ一体化していて、数量化とかが難しいようなものを扱っているというふうに分けたんです。
その周縁部にはものすごく平凡なものが登場してくるのか? そうではなくて、非常識な楽しげなものがたくさん出てくるのか?
どちらが出てくるかは、当時者の価値観によってくると思うんです。例えば、治療が難しい癌が見つかったときに登場してくるものは、「静かに人生の最期を考えつつ、いい人生を生きてきたという振り返り」であるかもしれませんし、一方で、「怪しげな代替療法に行く」ことになるかもしれません。そこの世界って、実は非常に広いですよね。
東畑さん
開業臨床をやっていると、取り扱っているメインの問題って、家族とうまくいかないとか、この仕事でいいんだろうかとか、ある意味で人生の問題です。
これって、医学的なリカバリーの課題ではないんだけれども、僕が仕事をしているときに、医学的な知識を使っていないかというとそうではなくて、精神病理を理解しようと努めています。ですから、調子を崩してきたら、医師にオファーもするわけですね。そこには重なりがあり、中間の領域があります。
ただ、難しいのは、オフィシャルとオルタナティヴの分別が公的資金を使うか否かと密接に結びついていることですね。本当はそこはあいまいなのだけど、お金が絡むことで、どうしても線を引かなきゃいけなくなります。
村井さん
オルタナティヴというと、つい「奇妙な人たち」というようなイメージを持ってしまうんですけれども、オルタナティヴには、常識的すぎて面白くもなんともないものも含まれてきます。
でも、世の人の大半はそうした常識的な人たちなので、医療という枠組では、基本的には、まずは病気の治療ということを中心に考え、それにプラスして「常識的オルタナティヴ」にもそれなりの気配りをしていく。しかし医療と離れた営みでは、医療以上に、オルタナティヴの「広がり」にも対応できるという、そういう感じでしょうか。
東畑さん
そうなんですよね。人生や生き方は多様です。みんながど真ん中だけを生きているわけではない。というか、それぞれが個別にそれぞれの人生を生きるということが可能になったのが近代であり、それが心理学というものの前提条件です。
人々が共同性にのみ生きていた頃には、宗教がその役割を果たしていました。だから、オルタナティヴを扱うというのは、僕らの仕事の根底のところにある構えだと思うんですね。
村井さん
医療の場合は、オルタナティヴなことを何も考えなくてよくて、基本的には、その病気を治せばいい。そんな中心軸の周辺に、人生の問題、というオルタナティヴの傘が広がっている、そんな感じでしょうか。
東畑さん
ああ、なるほど。
村井さん
この傘の中心から少し外れたあたりに乗っかっているのが、常識的価値観で、そこでは「ハッピーでいたい」「元気でいたい」「Quality of Lifeを高めたい」という常識的リカバリーという話になる。
ところが、その外側にもいろいろなものがあって、たとえば「自分の人生、艱難辛苦の繰り返しで幸せなことなどほとんど記憶にないが、でもこれが最良の人生だったのだ」というような振り返りも含め、傘の外のほうが広がっている、そんなイメージですね。
東畑さん
はいはい、いや、そう思いますね。
傘の突端と 縁(フチ)の間で……
村井さん
こうした傘の外まわりのほうで、対人援助を行っていくには、知識や人生経験、さらに柔軟性が必要で、なかなか大変でしょうね?
東畑さん
たぶん、人文科学とか文学なんかも、この傘のところの話なんでしょうね。
村井さん
ええ、ええ、そうですよね。傘の軸のところの医療や、その周辺でも、平凡で常識的なところをやっていたら、人文科学者や小説家にはなれない。そういう力がないなら、医学をやりなさいと。
東畑さん
なるほど。
村井さん
オフィシャルな心理の資格をもちながら精神分析をするというのも、「傘」の譬え(たとえ)からみると、それはそれで自然なことになりますかね。
東畑さん
うんうん、非常に見晴らしが良くなりました。傘で頑張ろうと思いました(笑)。
村井さん
傘で(笑)。
東畑さん
「傘型」人材なんですよ、なぜそうなってしまったのかわからないのですけど……(笑)
村井さん
でも、大変ですよね、この傘ってね。大概。
東畑さん
先生がおっしゃっていましたけれども、やっぱり自由である分、権力性に乏しいということだと思うんですね。アジールは制度に対して距離をとる分、常に不安定です。そこを引き受けないといけない。
村井さん
ええ、自由にやろうと思うとね。
東畑さん
そうですよね。いや、まあ社会ってそういうものですよね。
村井さん
ええ、ええ。
この“まちかど学問”というカフェ企画を津田さんとしているのにも、そういう問題意識があるんです。精神医学にしても臨床心理にしても、非常に窮屈になってきているので、「傘の周り」あたりで語っていくような場をつくりたい。それで、オフィシャルではない場=カフェをこうして続けています。
東畑さん
なるほど、確かに。
村井さん
素人として語ることが大事かな、なんて思うんですよね。
東畑さん
それは遊びの領域ですよね。遊びの必要がある……。
村井さん
「必要がある」とまで言っちゃうと遊びではなくなるので。
東畑さん
(笑)
遊ぶ「余裕がある」という感じですね。
村井さん
ええ、そうですね。どんどん遊びの余裕が減ってきているのは確かです。
東畑さん
そういえば心理学は、ここ最近ものすごく真面目になってしまいました。
村井さん
我々もそうです。かつて精神科には、医師免許を取ってみたものの、いろいろな意味ではぐれ者のような人が入局したものですが、最近はえらく生真面目なことになってしまって……。けれども、「遊び」が大事だからと真面目さを解体することもできませんし……、というか解体しないほうがいいと思うので……。
東畑さん
はい、危ないですよね(笑)。
村井さん
不真面目なところを残すというか、ちゃんと育むみたいになったらいいなと思っています。
東畑さん
いやいや、本当に……。
お客さま
東畑開人(とうはた・かいと)
1983年生まれ、十文字学園女子大学准教授。白金高輪カウンセリングルーム主宰。
京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了、博士(教育学)。精神科クリニック勤務を経て、現職。
著書に『美と深層心理学』『野の医者は笑う』『日本のありふれた心理療法』など、『居るのはつらいよ』〔2019年〕で大佛次郎論壇賞を受賞。
常連さん
いやいや、本当に……! いやいや、学会さんの場を借りたこともあってか……存外に生真面目ぽい談義になりましたねぇ。さて、凝縮したエネルギーを解放させて頂ければと思いまして、今日の収録を手伝ってくれた木立のホープさんに「ヨーヨー世界四位」の技をチラッと見せてもらいましょう!
2000年生まれ、小学校5年生の時に流行していたヨーヨーを始める。
2018年、2019年には糸とヨーヨーが離れる4A(オフストリング)部門で世界大会4位になる。現在は、世界大会での優勝を目指しながら、競技ヨーヨーの普及のために、一般の人に向けてのパフォーマンスやティーチングもおこなっている。
■協力:多文化間精神医学会 龍谷大学深草校舎 / 取材:田代晃太郎