まちかど学問のすゝめ
無くてもいいもの だから大切に…
《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さん(京都大学精神医学教室教授)が京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、そこに集う人たちと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。
きょうは、前回と同じく鴨川沿いのドイツ料理店: カフェ・ミュラーさんにお邪魔しています。ジャーマン・スイーツを味わいながら、常連さんと今日も “まちかど学問” 談義… 折しも11月30日から始まる「多文化間精神医学会」の話に…。私たちが人と出会うとき、そこにはどんな「文化/時代」が織り込まれているのでしょうか?
● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー
常連さん
前回の《木立のカフェ》は、《病跡学会》の大会をまえに「精神医学と芸術」をめぐって盛り上がりましたが、学会シーズンはまだ続くようですね?
村井さん
こんどは《多文化間精神医学会》の大会長を務めます。
常連さん
11月30日から伏見の龍谷大学での開催ですね。《多文化間精神医学会》というのは比較的あたらしい学会なのでしょう?
村井さん
《社会精神医学会》の一部があるときに分かれたと聞いています。精神医学に社会的な影響があることを考えるのが社会精神医学で、そこから「多文化」という観点から分かれて創設されたということで、トランスカルチュラル(transcultural)という名称になったのだと思います。
常連さん
「間」という意味合がcross-やinter-ではなくtrans-に込められている…。そんな精神医学では、「文化」をどんな風にとらえるのでしょう?
村井さん
多くの人がイメージするのは、レヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)のような人が「途上国」に行ってそこの文化を見て、自分たちの文明を振り返るようなスタイルでしょうか。
常連さん
日本も文化人類学をはじめ、実際に入って行って他文化に触れるフィールド・ワークが盛んでしたね。
村井さん
いまでも「多文化間」という観点では、そうした関与観察を重視する立場がひとつあって、もうひとつに、国際協力研究としてデータを持ち寄って、研究者自身は現地の人と生活を共にしたりはせずに、統計解析に乗せるスタンスがあります。
常連さん
後者では、医学という土俵でのエビデンスが浮かんでくるわけですね。
村井さん
研究スタイルとしてはかなり異なるこうしたふたつの立場が混ざっているのが《多文化間精神医学》だと思います。
常連さん
比較文化心理学のようなジャンルもありますが、精神医学固有の問題としては…?
村井さん
ひとつ問題になるのは、外国人が日本に来た場合に起こる事態ですね。
常連さん
労働問題とか?
村井さん
あとは観光客の問題。旅行の途中で症状が出て受診したけど、これは精神症状なのか? それとも国の文化なのか? そこがわからないというようなこともあります。
常連さん
アメリカなどでは常にある問題なのでしょうね。
村井さん
たとえばヒスパニックの人たちの診療のときには、文化差というのを考慮して適切な医療を届けなくてはいけません。症状の評価をする場合でも、うつの表現の仕方は文化によってかなり異なりますので、文化差に鈍感など評価を誤ります。クラインマン(Kleinman)は「中国ではうつを『うつ』と言わない」と指摘しています。
うつをこころの症状ではなく、「頭が重い」など身体の症状として患者は表現し、医師もその症状を拾うので、病名としては「神経衰弱」という概念がより広く流布している、という指摘です。うつというと「こころの病い」になってしまうので、精神疾患に対する偏見が、病気を身体疾患に寄せて考える見方を後押しするのだ、といった説明がされます。
常連さん
文化的なスティグマは根深いでしょうね。
村井さん
たぶん実務上は、そういう「現場」での個別の患者さんへの対応が《多文化間精神医学》でいちばん大事なテーマでしょう。対応するこちらの側の苦労、気づき、成長などもそうした臨床場面には含まれていますので、これも広い意味で「フィールド・ワーク的」多文化間精神医学と呼んでよいのかもしれませんが。
一方で疫学・統計学的な研究、つまり研究者が事態に巻き込まれない研究については、たとえば「統合失調症の発症率は途上国のほうが低い」というような研究が有名です。
この研究は、現代社会、医療、薬物療法がむしろ病気をつくっているんだという言説を後押ししましたし、一方では、最近、この研究はデータのとり方に不備があることが指摘され、論争の的となりました。《多文化間精神医学》が精神医学全般の問題(この場合は統合失調症の原因ですが)に大きな影響を与えた研究と言えると思います。
常連さん
文化差というのは、言葉の違いやコミュニケーションの違い以上に、深いところ… たとえば精神構造のようなところに出ますか?
村井さん
そういう意味でいうと、これはまったく個人的感想ですが、日本からすると、ヨーロッパやアメリカはほぼ問題にならない。韓国もまず問題にならなくて、東南アジアも。中国も、日本に来ているような人たちではまず問題になりませんね。よく「韓国人と日本人の気質の違い」とか言いますけれども、そんなものは、精神科の重大な症状が出ているときは、症状の差のほうが大きいので、そこに吸収されて、文化差はほとんど問題となりません。
常連さん
欧米もアジアも「文化差」問題がないとすると…。
村井さん
私の個人的経験では、難しかったのは中東諸国の人たちでした。「宗教」の違いが大きいですが、同じ宗教でもインドネシアの人たちの診察ではそれほどの困難は感じませんので、宗教を含む広い意味での風土の違いということでしょうか。
常連さん
この時代、アジアのなかでの心性の違いが云々されますが、中東には思いが及びませんでした。
村井さん
昔、本多勝一が『カナダ=エスキモー』とか『ニューギニア高地人』とか、関与的な取材を報告していました。遠目にはまったく文化が違って見える人たちも、現地へ入っていくと、わかりあえるじゃないかと。つまり「懐に入ればわかり合える」という本を書いて、ベストセラーになりました。
ただ、もう一冊『アラビア遊牧民』という本があって、そこでは、「人類みな、わかり合える」と言い切れない壁みたいなものも感じた、ということを書いていたと思うんです。そういうことを僕らも、感じることはありますね。
もちろん、精神科医である私たちの場合には、この国の文化はわかりにくい、では済まされず、自分が責任を持つことになった患者さんに元気になってもらわなければなりませんので、そういう状況でも、何とか突破口を探る努力を続けます。
村井さん
そういったことも含めて、《多文化間精神医学会》はとても面白いです。もともと精神科というのは色んな立ち位置の人がいるところが面白いのですが、研究をする精神科医の側の多様さが増幅された感じがして…。
常連さん
自分たちの間にも「文化差」がある…。そういう意味でも、立ち位置の多様性を含んだ議論は、これからますます大事になってくるでしょうね。
村井さん
そうした議論は、「他民族」批判が噴出した際に重要ですね。国家間の政治的軋轢などをきっかけに「韓国人はこういう民族だ」みたいな言論に私たちは陥るリスクがある。そうしたときには必ず「日本人論」が出てくる。日本人の「白黒はっきりさせないところがいいんだ」みたいな…。
村井さん
たぶんその同じ流れで、これからの社会では、日本文化と韓国文化の違いのような個別文化の違いよりも、「グローバリズム」のほうが重い問題になってくるでしょうね。つまり「世界全体の文化均質化の方向へ向かっている」ことへの視線です。
常連さん
グローカルや、ダイバーシティみたいな話をからめて。
村井さん
精神医学は社会学というような大きな分野ではないので、基本的に病気になった人に対して、精神疾患という病気に対して、文化的なファクターがどう影響するかという問題から考えることになるわけですが。
常連さん
国民の「気質」分類が合っているかどうかよりも、病気としてどう捉えられるか…。
村井さん
たとえば自殺率の高さというのは、気候だけでは説明できません。たしかに北の国では高くて南の国は低いけれども、イタリアの自殺率の低さを単に「暖かい国だから」というだけでは説明できない。そこには、カトリックが自殺を禁じていることなど、「文化」の要因が絡んでいるはずです。
ドイツと比べたらイタリアのほうが所得が低いし、ドイツのほうが社会保障がしっかりしているはずなのに、自殺率というアウトカム(outcome)で見ると、イタリアのほうが良い。この事実は、「気候」や「宗派」の違いだけでは説明がつきづらいのではないでしょうか。
常連さん
遺伝子なんかが着目されたり?
村井さん
もちろん、そう言う人もいます。ただ、歴史のなかでヨーロッパの民族はすごく混ざり合っているので、自殺しにくい遺伝子/しやすい遺伝子というのが淘汰を重ねるには何世代かかるかということを考えると、遺伝子だけでは説明できず、まさに「文化」と呼んでおくしかないようなことがらが影響しているのだろうと思っています。
常連さん
統計的・疫学的な視点からは「自殺」の他になにか重要なテーマは…?
村井さん
どちらかというと、イタリア人とドイツ人の国民の文化差なんていうのは、気楽な話題です。もうちょっとシリアスな問題は、世界じゅうの紛争地域での精神疾患の比率が、一般の人口と比べてどうなのか? というテーマがあります。
当たり前ではありますが、うつと、不安と、PTSDは紛争地帯では明らかに高くなります。
「この地域の人たちは戦闘民族の血を受け継いでいるので、子どもは生まれたときから銃を与えられてこそ生き生きと育つのだ」みたいな言説を耳にすることもありますが、こうした考えが基本的にはおかしい、ということをこうした疫学研究は指摘してくれます。でも、そのあたりまえのデータを出すのがけっこう大変なのです。多文化間の比較というのは、すごく難しいんですよ。
村井さん
面白いですよね、文化って。自分たちがつくったものによって自分たちが縛られるというのが文化なんですよね。ある種の思い込みで「日本人はこうあらねばならない」とかいう意識が自分や周りの人の行動を決めていく。そして、自分と周りの人でつくったルールで自分たちを拘束していく、という…。
常連さん
民族間とか人種間もあるけれども、ひとつの国のなかでも、たとえば、世代間で「文化」が違うとか…。昔は何があっても学校に行けと言われていたのが、今は、行って死ぬなら行かないほうがいい、と言われています。
村井さん
そういう意味では、ぜんぜん文化と関係ないと思われているいろんな病気も、文化で説明したほうがいいかもしれないですよね。たとえば「ゲーム依存」が疾病として位置づけられましたが、若い世代の人たちにとってゲームって、文化なんですよね。
常連さん
ネット依存もそう。
村井さん
そういう「文化依存」症候群というか、その世代の人たちに特有の症状は興味深いですねぇ。世代が違っていたって人はみな何らかの“弱点”を同じように持っているはずで、たまたまそのときの環境によってある症状が出るわけじゃないですか。そのときの文化によって、症状は違った形で出るわけですね。たとえば、妄想ひとつとっても、今だと「インターネットを通じで自分の考えが盗用されている」と訴える人が多いですが、昔だと「テレパシー」が定番でした。
常連さん
“依存”がどこに表れるか? に時代や社会が見える…。
村井さん
表面は違うけれども根っこのところは一緒で、その精神症状が異なる現れ方をするという視点で考えると、若い世代の「ゲーム依存」にあたるものが、今の高齢者の世代では何でしょう?
よく言われるのは、団塊の世代とかをイメージして「ワーカホリック」が挙げられます。でも、僕はちょっと違うかなと思ってね…。なぜなら、一部のワーカホリックな人はどんどんワーカホリックになりますが、多くの人はそうはならないので、世代を象徴しているとはいえないでしょう。
常連さん
世代を象徴する、「ゲーム」に当たるようなもの… うーん、なんだろ? たとえば「健康至上主義」とか…? 「アンチエイジング」とか…?
村井さん
“依存”するのは、それを取り上げられたら、もう、そわそわしてしょうがない対象です。ゲームのように、周りから見たらそんなことしてるより勉強をしたほうが良いにきまってるのに、それをしたくてたまらないし、取り上げられたら激しく怒る。そんな対象が、今の高齢者にとっては何だと思いますか?
常連さん
「健康」に夢中なるのは、傍から見てそんなに非合理ではないか…。
村井さん
僕は見当をつけているものがあります。クルマ!
常連さん
えっ? あぁ!
村井さん
高齢者の一定割合に、クルマを手放せない人がいます。もちろん全員ではないですよ。また、都市部の生活者ではなく他に交通手段がなく、クルマに乗りたくなくてもそれができない人もたくさんいます。なので話は首都圏など都市部生活者に限りますが、クルマの維持費を考えたらタクシーに乗ったほうが安い人でも、手放せない。
常連さん
人の命を奪ってしまうし。
村井さん
事故が起きたらもう取り返しがつかないから、子どもの世代が『お父さん、もうクルマやめはったら?』と言う。なのに、なかなかやめてくれなくて、すごく苦労しているご家庭は多いと思うんですよね。これまではクルマは“依存”という観点では、おそらく誰も考えてこなかったんだけれども、この「手放せない」感からして、実はそうかもしれないと思っています。時代性でいうと、若い頃にはクルマというのがステータスの証しになっていて、自由を得られもする。仕事を離れて自分の時間が持てる。
常連さん
社会の風潮や仕組もそのようにお膳立てしてきた。
村井さん
ネット依存でも、スマホ依存でも、それが無いと成り立たないように社会が変わっていくなかで生じていますよね。クルマが便利な生活になると、鉄道とかバスへのニーズが減って、廃線となる。そうすると、ますますクルマが必要となって、クルマを二台もつことを前提に郊外に一戸建とかを買う。郊外だからどうしてもクルマが手離せない。
こう考えると、文化と関係する病気というのは、本人だけで起きてくるものではなくて、社会全体と本人との相関で出来てくることがわかりますよね。電車やバスの便の悪い不便な地域では、クルマに頼るしかないではないか、それを依存というのはおかしい、という意見はもちろん至極まっとうな意見ですが、そもそも社会全体が、自家用車を前提とした方向へと依存してきたので、結果として個々人としては「クルマ依存症」という状態ではない人も、クルマに依存せざるを得ない状態になっているともいえるかもしれません。
常連さん
原発依存も連想されます。
村井さん
まあ言ったら、そういう形で、若いうちからだんだんと緩やかに“依存”状態ができてきて、「はた」と気づいて、もう運転が危ない高齢になったときに、しかも仕事での必要がなくなったときに、それを手放すことができないというような…。
村井さん
もちろん、これは半分冗談で言っているのですが…。文化と結合したこういう精神症状というか、精神疾患というのは、非常にダイナミックな社会状況のなかで、どっちかといったら本人の問題より社会の状況で、つくられていく。その社会の状況というのも、日本文化とか韓国文化という何か固定したものがあるのではなく、もっと流動的です。世代でも動いていくし、その変化によって我々がつくっている環境が変わる。その環境がまたその問題をつくっていく。こうしたものすごく複雑な側面を、精神症状・精神疾患は孕んでいます。
常連さん
精神医学には、そこで何ができますか?
常連さん
ゲーム依存からどことなく連想してしまうのですが、「ひきこもり」というのも、精神医学の対象とばかりも言えませんよね?
村井さん
あれは「文化」の側面があるともいえます。強制的に引きこもりを許さないような社会制度だと、あるいは貧困が著しい国だと、ひきこもりは出来ないですよね。あるいは、これらは文化というより「制度」の問題かもしれません。もちろん、大人になっても家族が子どもを世話する、子どもも親の面倒をみるという、日本人のある種の美徳みたいな「文化」が影響しているとは思うんですけれども、だけどやはり、社会制度のほうがより強く影響しているのではないでしょうか。
常連さん
たとえばどんな制度とか…?
村井さん
たとえば、徴兵制というシステムがないことはが大きいと思います。あとは、保険制度とか社会福祉制度とかも関係してきますよね。こうしたことを考えると、ひきこもりとは、日本という国のよい側面の現れのひとつであるともいえるかもしれません。
一方で、日本では失業後の就労再トレーニングの制度が不十分ですよね。NEET(not in education, employment, or training)という言葉がありますが、日本では、このうちのtrainingの影が非常に薄いのです。
もう何十年も前に留学したドイツでは、産業構造の変化のために職業トレーニング中の人は大勢いましたし、そうした人たちはマインドとしては失業者というよりはeducationつまり就学中の人たちに近いものがありました。日本のひきこもりの土壌の負の側面としては、こうしたことがあるのではないでしょうか。
常連さん
システムと文化の腑分けはむずかしそうやな。
いらないところに「はまる」
村井さん
サブカルチャーも本当は「文化」なので、見逃せませんね。
常連さん
何十万人もがつくっている文化ではなくとも…。
村井さん
何人から文化をつくれるかわかりませんが、人が複数いれば文化ということで…。僕らは何々文化というものに専属しているわけではなくて、たとえば日本文化からある程度影響を受けていたけれども、政治思想としてはグローバリズムみたいなものが染みこんでいる。あるいは、趣味はこうでこう… とかいうことで、ひとりの人がいくつもの文化に所属している状態ですね。そうしてお互いが重なり合っているような状況なので、面白い。
常連さん
ということは… 自分のひとりのなかで《多文化間~》って起こり得るわけですね。
村井さん
ひとりのなかで… そのとおりです。
常連さん
頭ではこう考えているんだけれども、体はこう動いちゃう、みたいな。
村井さん
そうなんですよ。一人の人間の中でこっちの文化とこっちの文化が相容れなくなる。職場での文化と宗教的な文化が自分のなかで折り合いつかないとか…。ほかにも、大人でも社交クラブ、サークル活動みたいなのは盛んじゃないですか。ああいうものもひとつの文化ですよね。個人主義とか何とか言っていても、結局、何かクラブに帰属して安心している…。
常連さん
宗教にも、信仰と教会がありますよね。
村井さん
キリスト教でも、単に個人として神と繋がっているわけではなくて、ある教団に属して、教会に通っていつも同じ人から説教を聞いて、というなかで安心している。そのなかでボランティア活動をしたりして、同志とのつながりを深めているんですよね。人はそういうものに「帰属」しようとする傾向があって、その帰属先で縛られたり安心したりとかしながらやっている。そうしているうちに、いろんな症状が出たりすることもあるみたいな… そんな感じですかね。
常連さん
帰属する/しないを折々に自分でコントロールできれば、いいのかなぁ?
村井さん
依存症というのもそうかもしれませんよ。タバコ依存も…。もちろん、他人とはまったく無関係で独りで勝手に依存している人もいますけれども、多くの場合は、なんらかの文化的文脈の中で起きているのではないですかね。
常連さん
なんとなく… 一人でやっている感じがしないですね。マリファナや違法ドラッグなんかも…。
村井さん
依存症って、医学ではあまりそんなふうに考えられていなくて、単に脳の報酬系の問題として捉えられることもあるんですけれども、「文化と結合したものだ」という理解は面白いかもしれませんね。
常連さん
さきほどの「クルマ依存」の話にも近くなるかもしれませんが、ハーレー軍団のおじさんたちも、やっぱり独りではやらないですね。
村井さん
申し訳ないですが、何が楽しいのかと僕らは思っている。うるさくて迷惑だし… 事故のリスクがあって… お金もかかってるし… 真夏に革ジャン着て、「なにがええんか!」と。その仲間集団に所属していない僕らから見たらそうなんですけど…。
常連さん
本人たちは自由と帰属を満喫している。
村井さん
そういうふうに考えたら、文化自体を「依存症」と言ってもいいのかもしれません。となると逆に、依存症を「文化」に格上げしてもいいわけだよね。適度な範囲でやっているものに関しては…。
常連さん
依存はなはだしい「学会」活動はとっくに文化を名乗っていますが…。
村井さん
精神神経学会については、これを単に文化というのは言い過ぎで、あれはまあ… 無いとまずい…
常連さん
システム。
村井さん
極論ですが、少なくとも《多文化間精神医学会》とかは、無くてもいいと思うんです。そういうのは文化です。
村井さん
うん。帰属しているけど、無くてもいい。それがまあ、文化ですかね。
常連さん
おもしろいなぁ。なくてもいいというのが「文化」の規定。うん、確かに… 無いほうがいい場合もあるぐらいの…。
村井さん
無くてもいいというのは、バカにしているのではなくて、本当はそれが大事なんですわ。無くてもいいものが存在する世界は素晴らしいですね。
『中世の秋』という名著で知られるを書いたホイジンガ(Huizinga)人が「人間とは何か」を定義するときに、「ホモ・ルーデンス」という言葉を使った。「人間とは、遊ぶ動物である」と。人間とは知性のある動物(ホモ・サピエンス)と言われていたなか、遊ぶ動物と定義したわけです。「こんなに遊ぶのは人間だけだ」ということですね。
常連さん
「遊びをせんとや生まれけむ」みたいなね。
村井さん
まさにそうです。“遊び”って、凝ってしまって依存してしまうものですよね。そして、どの遊びに凝るか? 依存するか? は、人それぞれ違う。そこが“遊び”の特徴でしょうね、全員同じ遊びをやっていたら変だと思うんですよね。なんでそうなるのか不思議なんですが…。
常連さん
それぞれ違う“遊び”を、それぞれでやっている。
村井さん
ここのところがやっぱり、おもしろい。人間の人間らしいところですね。だから、精神医学というのは、よく考える必要があるでしょうね。ある種「合理的でない」もの、「無くていい」ものを悪もの呼ばわりして全部切り捨てていくと、人間を全部殺すようなことになるんです。だから、“遊び”は残しつつ、「でもやっぱり、ここの部分は…」というような限度を超えたものに対しては“病気”として見ていくというような。なにかそういう、ちょっと広めの風呂敷みたいなもので考えておく必要があるんです。
常連さん
なるほど、なるほど。うん…。
開催のお知らせ
第26回 多文化間精神医学会 学術総会
日程:2019年11月30日(土)・12月1日(日)
会場:龍谷大学 深草キャンパス
■ 会長講演
多文化の時代~多文化概念の多様化と精神医学~>
演者(会長):村井俊哉(京都大学 精神医学教室)
ほかにも特別講演、教育講演、学会賞受賞講演、シンポジウム、ワークショップ、産業医学セッション、一般演題等
詳しくは、総会公式サイト をご覧ください。
(2019年10月24日掲載)
■協力:カフェ・ミュラー/取材:木立の文庫