まちかど学問のすゝめ
どうして? 科学が芸術を語るの??

●村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
●諏訪太朗:1972年生まれ、京都大学付属病院精神科神経科助教
●植野仙経:1976年生まれ、京都大学医学研究科大学院生
●常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

常連さん

今日はいつものGROVING BASEを出て、京都市左京区吉田にあるカフェ・ミュラーさんにお邪魔しています。《木立のカフェ》マスター村井さんのお誘いで、すぐ近くの病院からお医者さんお二方が“おしゃべり”に来てくださいました。
ここカフェ・ミュラーさんは、ゲーテ・インスティテュート・ヴィラ鴨川(荒神橋上る)のなかにあって、河畔に憩う“ゆりかもめ”たちの喋り声も聞こえてきそうな、緑の多い素敵なカフェです。

本場のドイツ料理とケーキが味わえるカフェ・ミュラーの日本庭園

ありきたりでないものをどう観る?

村井さん

最近、まったく普通の生活人の目線での関心事、たとえば「人生」とか「子育て」とかのことを、脳科学の専門家がコメントするようになっていますね。そういうことをコメントするのは、一時は“文化人”だったこともあるかな? 芸能人化した文化人が…。
昔は精神科医も、たとえば「なぜニクソンはこうなったか」といった風に歴史上の人物についてコメントする役割を果たしていましたよね。“芸術”についてもそうです。なぜ、精神科医や脳科学者にそれが求められるんでしょうか?

植野さん

精神科医や脳科学者が芸術を語ることについては、僕はどちらかというと懐疑的で、芸術のことは芸術家に、芸術評論であれば評論の専門家に任せるべきだと思っています。精神科医は芸術のシロウトなんですから。
ただ、芸術の文脈では理解がむつかしい、それまでの芸術の歴史や流れから外れている、人やその作品を理解するときには、精神医学が役に立つことがあるかもしれないですね。

村井さん

たしかに、それはそうだよね。歴史のなかで「浮いた」人というのは、たしかに… われわれが語るべきでしょうね。ノーマルな人の芸術に精神医学の小難しい理論を当ててもしょうがないわけです。ノーマルな人の発想と明らかに違うものが出てきたときに、それを理解する手立てとして、精神医学的な知識、例えば「自閉スペクトラム症の人たちがどういう感性を持っているか」という知識を使ってみるというのは、自然なことですよね。素手でそれを理解するよりもわかりやすい。

植野さん

いわゆる現代芸術は理解がむつかしいと思われがちだけれども、それまでの芸術の歴史やその作家が置かれた状況が背景にあって、その背景に照らし合わせることで、「なぜそのような表現がなされたのか」が理解しやすくなる。一方で、芸術の文脈のみでは理解がむつかしい場合には、精神医学的な知識は、理解するために役立つのかもしれませんね。

村井さん

それにしても謎なのは、「精神科医が芸術を語るのは当たり前」と思われているじゃないですか。だけど、例えば耳鼻科医は芸術を語らないですよね。これはなぜなんですか?!

植野さん

たしかに、芸術を語る耳鼻科医に比べると、芸術を語る精神科医のほうが多そうですね。もしかすると、“芸術”も“精神の病い”も、どちらとも精神の所産だという前提があるからでしょうか。そういえば、精神医学の一分野に「病跡学」がありましたね。たとえばゴッホのような芸術家に関して、その人が患った疾患と創造行為との関連をあつかう学問ですが、そのおおもとには、狂気と天才ひいては創造性とになんらかのつながりを見てとる、という発想があったとか。

村井さん

そうですね。そうした芸術家が生む“美”という事柄は、脳なのかどうかわからないけど「精神」の所産であって、腎臓とか肝臓の所産ではないということですね。だから、われわれ精神科医は「そういう意味で芸術を語ってるんだ」という、ちょっとした自覚くらいは要るよね。「語っていて当たり前」みたいに思っているけど、対象としての臓器(脳)の特性として芸術と関連が深いという前提があって初めてわれわれは語る資格を与えられている、という自覚くらいは持つ必要がありますね。

植野さん

そういえば、“芸術”が精神医学と関連づけられる理由に、もう一つあるんじゃないでしょうか。「ある人が表現したものは、その人の精神のあり方を反映する」という前提があって、その前提のうえでバウムテストのような心理検査が精神医学の領域で用いられていた。そのために、他の診療科の医者に比べて精神科の医者が、表現物とそれを表現した人との関係を、ひいては芸術を語るという流れになったのではないでしょうか。

芸術と教養を問う諏訪さん(左)と学びのアプローチに注目する植野さん

浮いた人は浮いた人が診る?

村井さん

ということを考えあわせると…往年の精神科医が盛んに“芸術”を語ったのは、芸術表現と脳や心の“ありきたりでない”あり方と関連が深いから?ということになるんでしょうかね。

諏訪さん

いやいや、ひょっとしてその頃の精神科医は、できる治療や検査が限られていて、「やることがなかったから、治療の対象でない“芸術”について語っていた」ということはないでしょうか?

村井さん

わかりました。公式の答えは「腎臓ではなく脳あるいは心が芸術を生み出しているからである」。でも現実の答えは「腎臓内科医よりも精神科医は暇だから」と (笑)。

植野さん

医者の地位はどうでしょう。昔は、「医者は教養人でもある」みたいな風潮は無かったでしょうか。そのような社会的な位置づけも影響していそうに思います。

村井さん

ああ、それはありますね。昔は万能人みたいなタイプの人がいて、医者でもあるし芸術家でもあるような人がいましたからね。

諏訪さん

昔の医者には美術品のコレクターも多くいましたしね。

村井さん

ということで“美”には、脳の所産であるというだけではなくて、もっと社会的な背景があることが見えてきましたね。医者の地位とか、教養人として期待される役割とか…。そうした「医者」としての社会的な特性に「精神科医」としての対象臓器の特性がからんで、精神科医が“芸術”を語ってきた、というのは確かでしょう。

個別への眼差をもういちど

諏訪さん

もうひとつ、芸術というものの捉え方にも違いがあったかもしれませんよ。その昔、西洋近代社会のなかではサロンや画家同士のコミュニティ、もっと固いものだと美術アカデミーによる教育などによってかたちづくられた「これが芸術」というものがある程度しっかりあったと思います。

村井さん

ゲーテ、太平記、古典。そうした「教養」と呼ばれるものが、しっかりあった。いまの“病跡学”は「教養」じたいが変わって“芸術”も変わって、という抗うことのできない流れに漂う小舟みたいなものでしょうか。
先日の病跡学会で、伊藤若冲についての発表を聴いて、「若冲って、そんなふうに理解したらええんや」と腑に落ちたというのが、実は収穫でした。自閉症といった視点で見ると、彼の芸術は非常によく理解できるな、と。「自閉症という特性『の水脈』…」「〜『の傾向』がある」という巧妙な言い方だったのですが。

諏訪さん

いまどきは診察をしてもいない人について、「芸術家の誰それは何病だ」とアグレッシブに言ってしまうと、かなり批判されますよね。「この作品のこういうところは、〇〇症の徴候と考えても矛盾はないんじゃないか ?」というくらい。それがギリギリですよね。

村井さん

しかしその一方で、個人情報保護法ができて現実の患者さんについてのいわゆる症例研究というのも論文にも出せなくなってきていますよね。そうすると面白いことに、ひょっとすると今、個人の細かいところ、「この方はこんな家庭環境で育って、そうなった」ということを精神科医が語るときに、意外と具体的なところを出せるのは“病跡学”の領域かも… ? ということになりませんか。昔の人についてだから、ある程度推測は入るけど。

植野さん

そのような「個別」を見る流れ、それも具体的な事例を詳細にみるということは、医学においてとても重要だとおもいますね。ただ個人的には、病跡学の面白さは、ゴッホのような個々のケースを詳細に検討しながら、もう一方では天才的な人物を集団的にまとめて疾患や体質ないし気質、今風にいえば遺伝的素因や性格傾向といった、いわば「一般」的なことと関連づけてゆくところにあったのではないかと思います。そして、それは当時の最先端の医学的アプローチでもあったのだろうと思うんです。それらの「個別」と「一般」を見るアプローチを現代的なものにアップデートしていくと、“病跡学”のような分野は面白くなるんじゃないかと。

答えの求めかたを語りあおう

諏訪さん

病跡学に限らず、「芸術評論」という語りがあるかもしれないですね。読んでいてさっぱりわからなかった小説を、例えば臨床心理学の偉い人が書いた解説を読んでから読み直したらすごく面白かった、ということありません? そうした「学び方」の学びの場になるかもしれませんね。

植野さん

それは同感ですね。そのような解説や評論を書ける人は限られているとはおもいますが… ともあれ、そうした文章を読んでいるときには、アプローチの方法を学ぶという感じがしますよね。なにかの「答え」を学ぶというよりは、「答えの求め方」や「問いの立て方」を学ぶといいますか。

諏訪さん

それには肴があったほうがいいですね。絵とか? ケースカンファレンスのようなもので、その集団が共有している切り口から解釈の方法を探ると言いますか。上手くいくと、芸術を医者の視点から見ているところが面白いということになり、一般の方々が芸術のみならず、精神医学や脳科学を理解する糸口にもなるかもしれません。
ちなみにうまくいかないと、「専門家の言うことはよくわからん。役に立たん。」と、非専門の方からの興味をますます遠ざけることになる。昔は専門家による閉じたコミュニティを「よし」とする傾向もありましたが、現在では開かれていることがより重視されるようになってきていますよね。

植野さん

医学の視点からみた解釈が芸術や芸術家を理解する役にたつと思われたとしても、それは謎を解き明かした気になってもらっているというだけかもしれませんがね。ただ、芸術そのものとはまた違った視点からみることで、「これは興味深いポイントだ」といった着眼点を提供している、ともいえるかもしれません。

村井さん

専門家としてのいろいろな経験とか知識とかが端々に感じられて、知的で教養に満ちていて…。それでいて、割と普通のことばでライブで話すので、脱線したり…。こんな感じでもし仏像について語るとしたら、要するに「みうらじゅん」の世界ですね !

木立のカフェのマスターで「みうらじゅん」ファンの村井さん

植野さん

そのような語りは、とても面白いですよね。物事の見方を知るというのは、いってみれば星々をただの「星の集まり」と見るのではなく、「星座」として見るようになることだと思うのですが、星々をみるさまざまな見方を手に入れる… それが教養ということだと思いますね。

常連さん

なるほど… 一つひとつの星の物理的な成り立ちを考える学問もあれば、「星たちをどう観るか? 観えたものをどう束ねて眺めるか?」を考える学問もある。そんな色んな立ち位置から、脱線 OKの「ルール無用のジャングル」で語り合う、そんな場に《木立のカフェ》が成ればなって想いますねぇ。
さて、そんなで今日は、植野さん、諏訪さん、《木立のカフェ》に遊びに来てくださり、ありがとうございました!

お客さんの自己紹介

諏訪太朗(すわ・たろう)
1972年生まれ、京都大医学病院精神科神経科助教
普段は統合失調症・双極性障害・うつ病など病態のうち、薬物治療が充分に効果を示さない症例の臨床を主に行っていますが、精神医学史や漫画に関する原稿を書くこともあります。

植野仙経(うえの・せんけい)
1976年生まれ、京都大学医学研究科大学院生
精神科医として仕事をする傍ら、精神医学にかかわる概念的な問題にも関心があり、哲学的な文献を読んでみたり、いろいろと考えをめぐらせたりしています。

関連情報
第66回 日本病跡学会総会 開催のお知らせ
日時:2019年7月6(土)・7日(日)
会場:龍谷大学 深草キャンバス

「ところで、病跡学っていったい何?」(会長講演:村井俊哉)
ほかに特別講演、教育講演、シンポジウム、懇親会等
詳しくは、公式サイトで
http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/pathog66.htm

(2019年6月30日)

■協力 カフェ:カフェ・ミュラー/取材:木立の文庫 編集部/編集:前回のお客さん

まちかど学問のすゝめ