まちかど学問のすゝめ
真実はひとつだろうか? 後半
●村井俊哉
1966年大阪府生まれ、バックパッカーを経て現在、精神医学者
最新著『精神医学の概念デバイス』(創元社, 2018年)
●お客さん
1969年神奈川県生まれ、歴史学研究者を経て現在、臨床歴史家
●常連さん
1967年大阪府生まれ、勤務編集者を経て現在、出版プランナー
前回からつづく(2018年10月30日に収録されたトークの後半)
村井さん
今日このカフェで話し始めたときは、「専門性の低さは“アクセスしやすさ”にある」と思っていたんですけど、こうして考えていくと、「専門性のない分野とは“いろんな意見があるということが当然だ”と思われているような分野だ」という見方もできるかもしれませんね。「自分にはよくわからないけど答えはひとつのはずだ」というような分野には、人はあまり口を挟まない。「それは専門家に任せておこう」と思いますよね。
常連さん
人間に関することでも、「遺伝子」の話は専門家に任せるけれど、「気持」の話は素人のわたしでも口を挟めそう、とか。
村井さん
歴史なんかは微妙で、最終的には真実はひとつのはずなんですけど、見つかっていない部分も多いので、けっきょく解釈が勝負となる。
常連さん
文芸批評などでも客観性・専門性は成り立ちにくいですね。「あなたは批評してもいい」という暗黙の基準を満たした人が批評の専門家なんでしょうか。ネット社会もそうですよね。インフルエンサーと位置づけられた人だったら発言が尊重される、みたいな。
村井さん
医師免許のような資格もないですからね。分かれ目は、ファンの多さと説得力だけですね。あとは、言っていることの全体的な「整合性」でしょうね。たとえば、作品と自分の言っていることとが整合性をもっているか?
お客さん
毎回毎回、違うことを言っていないとか。
村井さん
あと、発言者自身が何かを“クリエイト”しているかどうか。たとえば、昔の有名な哲学者は割と思い切ったことを大雑把に語ったじゃないですか。それに対して、そうした哲学者について研究をしている人は、ものすごく精確性を重視しますよね。
お客さん
そう、「哲学学者」ですよね。でも、そこに“クリエイト”したものを乗せている人は、その人自身が「哲学者」と見なされる。
村井さん
おもしろいじゃないですか。
常連さん
精神医学にも、精神医学者と精神医学学者さんがおられたり……?
村井さん
精神医学史学会とかでは、事実を丹念に調べた報告がたくさんあります。ただ、そうして調べたことが、現代の精神医学に対してどういう影響をもっているかを述べることに対して、例えば患者さんへのスティグマ克服に向けて我々は歴史から何を学ぶのかといったことへの意見表明という点で、研究者らはちょっと慎重すぎるように感じることはあります。せめて、一般読者向けにその成果を伝える場合には、調べたことだけ書かずに、思い切った意見を言ってもらいたいと思うんですよ。
お客さん
どこかしら「意見を言ってしまうと、専門家じゃなくなっちゃうかも」っていう怖さがあるかもしれない……。
村井さん
その「専門家」という言葉には、たぶんいろんな意味があるんでしょうね。いま、話しながら考えてきたのは「中立性」という言葉の意味なのですが、“わからなさ”みたいなものもやはり「専門度」の基準ですよね。素人の“アクセスしにくさ”ということで、今日、話し始めたときの最初の直感に戻ることになりますが……。
“中途半端”をもういちど
常連さん
前回の《カフェ》という場面のテーマでいうと、唯一の真実かどうかわからないことが、対話のなかで思いつくままに語られていく場、そんな《カフェ》の意味が、話題になりましたね。
村井さん
昔は、精神医学の専門家はけっこう“思いつくまま”に語っていたと思うんですけど、語られなくなったのは、専門性に対する疑問がよく突きつけられているからじゃないでしょうか。「いい加減なことを言ってるんじゃないのか」という疑念に対して防衛的にならざるを得ない。だから「私たちの言っていることはこんなに中立的で、私たち専門家はそうやすやすとは自分の“思いつき”を口にしないのだ」という態度をとることになる。
患者さんは医療保険で病院に来られているし、ということは精神科医も国のお金で仕事をしているわけです。そして当然ながら「専門性」とか「中立性」を持った専門家になりなさい、とこれまで養成されているので、そうした態度になるのも当然のことですよね。
それでも、精神医学が本来扱っているもの自体、つまり“こころ”とは、素人でもアクセスしやすいものですよね。それからもうひとつ、精神医学は「自分の人生はどうあるべきか」といった話にも関係してきますよね。こうしたことについては色んな意見があるのがむしろ当たり前であって、「専門性」を持ちにくいはずなのです。ところが精神科医は「専門性」という鎧でガードしなければならない立場にある。
そうしたことを考えていくと、この不均衡のなかでストレスが溜まっている精神医学の専門家のこころの“オアシス”として、こころの“バランサー”として、専門家が専門性を離れたような意見を気軽に言うような場所というのがあってもいいのかなと思っています。《カフェ》が大事というのは、そういうところですね。
常連さん
歴史の畑でも、いろんな談義が自由に交わされるフィールドがあったりします? 学会とは別に。
お客さん
いやぁ、どうかな。昔は、専門家と専門家でない人の“あいだ”みたいな人がたくさんいて、さっきおっしゃっていたような『歴史散歩』が書けるような中学高校の社会の先生とか、そういう層が割とたくさんいたんですけど、いまはちょっと、そういう層が失われているような気がしますね。いまも昔も、「もの知り」ということではなく直接対象を観たり集めたりしている人は強いです。
昔は理科などでも、蝶を集めているとか星を観るのが好きだとか、半分は学者みたいな中学高校の先生がいっぱいおられたと思うんですけど、いまはすごく減っています。そういう層こそが、「専門家」からすれば、最高の応援団でもあり、ある意味では逆にいちばん厄介だ、ということかもしれませんが……。
村井さん
“中途半端”というのが難しくなっているのではないでしょうか。いま、言われたことは、精神医学においても、けっこう真理をついていると思います。中間的な人たちが減ってきているのを感じます。なんでもかんでも「専門家に聞け」となるのも、やはり違うなという気がするんですよねえ。
お客さん
あの層がけっこう大事だったんじゃないかと、わたしは思います。
常連さん
心理学の本への“中間層”のニーズが減っているのもそこかもしれませんね。ちょっと小難しい本は、本当の素人の人じゃなくて、割と本を読むのが好きな層がないと成り立たないじゃない。いまは売れるのはそういう“中途半端”な読み物ではなくて、「こうすれば治る」みたいなハウツーもの、それこそダイエット本とか、コーチングとか。自己啓発みたいなものとか、そんなふうになってきていて。
お客さん
歴史の分野でも、「信長の経営術」とかいうほうが売れるのかな。『歴史散歩』みたいな感覚が薄れているかもしれないですね。その領域を、実際に歩くという意味だけじゃなくて「歴史の世界を遊ぶ」というような感覚が…。
歴史だけじゃなくて、理科もそうですし、文学とかでも、たぶん中学高校の先生が「星の世界」とか「文学散歩」とかいう一種の教養書のようなものを書いている文化というのがあったと思うんですが……。
常連さん
それこそ「本屋さん散歩」もなくなってますしね。
村井さん
本屋でウロウロすること自体が楽しかったんですけど…… 本を買うというよりも。
お客さん
目当てのものをというのではなくて、「本屋にいる」という時間がありましたからね。
ウロウロ“探索”のすゝめ
村井さん
確固たる目的があっての研究ではなく、答えがひとつでもなく中立的でもない、“中途半端”な「ぶらぶら散歩」ということから、いま考えてみると、じつは今日のいちばん初めの「自分の足で歩く」という話題にもつながりそうなんです。
お客さん
出張の前後に東海道8kmを2時間かけて歩く、という……!
村井さん
最近どこかで読んだある哲学の考え方というか、誰でも思いつくことではあるんですけど。われわれは、時間とか空間とかでできた三次元か四次元の「箱」のようなものの中を移動しているというイメージをなんとなく持っているじゃないですか。でも実際には、こちらの経験の側から考えると、「われわれが経験したり動いたりするからこそ、変化があるからこそ、時間があるんだ」という考えがあるんです。
そう考えると今度は「時間だけなく空間も、主観から構成される」ということになりますよね。もちろん止まっていても空間はあるんですよ。自分が止まっていても、近距離に視野を合わせたり遠距離に合わせたりで空間を探索することができますからね。でも、基本的に空間は、そこに決まった三次元の地図があるというよりも、「われわれが動いて発見していく」という見方もできますよね。
精神医学では主観と客観を行き来してそういう見方をするのが得意なので、「時間」については、そういう観点からの優れた論文もいくつも出ています。客観的な時間に対して主観的な時間というものを見直そうという感じの……。このことは空間についても同じことで、移動というのはいちばん「空間」を主観で認識しやすいですよね。
お客さん
動いて地図を作っているようなものですよね。自分で足を運んでナンボ、というか、わたしが歩いて初めて空間の大きさが決まってくる、というか。
村井さん
理屈だけで言うと、googleのストリートビューを見ていても同じものが見えるはずなんですけど、自分で行ったり能動的に動く探索というものがあって、それはとても大事だと思います。歴史ある町のおもしろさというのは、そこにありますよね。過去の時間軸が加わるので、現代だけでなく昔どうだったかを想像するとか……。この探索となると、断片だけ取り出してもおもしろくないです。ある時代のあるエピソードだけ取ってきて、次はまったく別のエピソードに飛んで、などと調べていってもね。
常連さん
いまはインターネットから情報を引っ張ってくる。移動するときも「次はあそこを左に曲がりなさい」というように誘導されて行き着くわけですが、それは探索ではなくて、ゴールへの移動。書物の役割もそんな風に変わってきているんじゃないかなぁ。この事柄についての知識を得て、次はあの事柄の情報を得る、という感じに……。昔はかなり“探索”的な読書を愉しんでいたのが、ぼく自身も懐かしいです。
村井さん
たとえばこの本(『精神医学の概念デバイス』)との関係で言うと、精神医学というのは「概念」を探索しているところがあって、それがおもしろいわけです。ある概念からある概念にたどり着き、また次の抽象概念に移動して、という風に探索しているわけです。カントみたいな感じに「基本概念がまずあって、世界はこのように構築されている」というのではなくて、実際には概念についても、われわれは「概念の空間」を探索をしているわけです。精神医学のおもしろさは“探索”のおもしろさにあるのかもしれませんね。探索しているうちにだんだんその「空間」に親しくなってくるので、ますます関心が深まっていく。
最近、それがなかなか難しくなっているのは、ネット時代にあって、観光とか歴史とかに対する興味が薄れていることと同じかもしれないですね。
常連さん
ネットでも「サーフィン」というスタイルで“サーチ”はしているんですけどね。
たしかに知識は増えていきますが、何が違うかというと……。
お客さん
違うのは、足を使うことかな。
村井さん
五感はけっこう大事で、それが制約条件になるのがよいのかもしれませんね。行かないと出来ないし、行けない所には行けないですから。いきなり日本からブラジルに飛んだりはしないので、制約条件がある。ネットの場合、その制約条件が希薄ですよね。旅行では完全に五感が頼り。あるいは……自分の五感が制約条件になって、からだに入ってくる感じでしょうか。
常連さん
からだに入る、ねえ。
村井さん
旅行に行っても、覚えていることってほとんど、道に迷ったとかいうことですよね。史跡とかを見に行ったあとも、「あそこで苦労した」とかばかり覚えていて、肝心の目的地はそれほど記憶に残らないですよね。
お客さん
途中のアクシデントのことばっかり、からだの感覚として滲みついて残っている。
村井さん
専門領域の話もやっぱりそういうもので、「これが正解」というのがポンとあって「これを読んでおいてください」と言われるよりも、ウロウロ探索しているときの堂々巡りのほうが印象に残る。
常連さん
ただし、空回りではなく……。
村井さん
酒の入った場では、酔っていない人から見たら完全に空疎な会話がでぐるぐる回ってしまいますよね。カフェぐらいがいいです。たぶん、いま《GROVING BASE》でのトークのほうが、学者が飲み会で話していることよりは意義があるんじゃないですか。
お客さん
答えがひとつでない“散歩トーク”が、カフェの醍醐味ということ? かな。
(2019年1月22日 掲載)
■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:篠田拓也・但馬玲/編集:Office Hi