まちかど学問のすゝめ
真実はひとつだろうか? 前半

Cafetalk over “truth” (the former)

●村井俊哉
1966年大阪府生まれ、精神医学者。京都大学大学院医学研究科教授
最新著『精神医学の概念デバイス』(創元社, 2018年)
●お客さん
1968年神奈川県生まれ、歴史家
●常連さん
1967年大阪府生まれ、GROVING BASE住人

村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)

常連さん

今回も 《GROVING BASE》カフェへようこそ! 今日も歩いてのご来店ですね。いつも動きやすそうな出で立ちですが、その靴は……。

村井さん

この靴は前から見るとビジネスシューズみたいなんですけど、じつはスニーカーなんです。会議とかにもこれで十分ですしね。この週末も東京での出張の前に時間があって、この靴で東海道を藤沢から戸塚まで8km歩いてきました。

お客さん

藤沢から戸塚まで! わたし神奈川県の出身なんですが…… あそこはアップダウンがあって、歩くのに慣れていても2時間はかかりますね。

村井さん

ハイ、遊行寺坂。この2時間という制約がちょうど人間の体験には好都合なのかもしれませんね。人間の脳の処理能力には限界があるので、8kmを一気に見渡せと言われても結局、処理できないじゃないですか……。私はいつも『〇〇県の歴史散歩』っていうのを持って旅行するんですが、あのガイドブックを見ながらの2時間というのが、とてもいい具合なんです。

常連さん

オッ『歴史散歩』シリーズ〔山川出版社〕ですね! こちら(お客さん)たしか…… 歴史の専門家さんでしたよね? 前回のカフェ・トークでは《専門家と素人》という話題(精神医学や臨床心理学は「素人」的な学問/歴史学や哲学は「専門家」的な学問、との話)もありましたし…… いっしょにお喋り、いかがでしょう。

村井さん

あの『歴史散歩』シリーズの著者の多くは郷土史家ですよね、中学校の先生とか。でも、ものすごくよくできている。そういう意味で“歴史”というジャンルは、素人からもアクセスしやすいといえるのでしょうか。

お客さん

そうですね。「アクセスのしやすさ」っていうことの中身を考えると、ひとつには理系の学問のような実験装置とかが要らない。身近に図書館や資料館があれば文献も集められるし……。

村井さん

僕は昔バックパッカーで海外を旅行していたんですが、ジャングルを遡って川の真ん中からジャブジャブ入って上陸するんですけど、昔の専門書に『このあたりはまだまだ人が来ていない村がある』と書いてあったのを思い出して、行ってみるんですが、人類学の専門家よりも先にバックパッカーが先に来ているということもありました。

お客さん

どっちが専門家かわからないですね。

健脚な村井氏。かつてはバックパッカーとして地球を歩き倒したとか

素人の“アクセス”と一家言

村井さん

そんな比較文化学も「足で稼いでアクセス可」な分野ですよね。もうひとつ、「直感でアクセス可」と思われる学問に、精神医学があります。ほんとうは割とアクセス困難と思うんですが…… 例えば、素人は薬を使えないし……。でも、素人だけど「自分のほうがよくわかっている」と思えてしまうところが精神医学にはあります。それにも一理はあるんだけど……。

お客さん

心理学みたいな話題についても、素人ながら誰もが一家言ありますよね。

村井さん

そういう不思議なところはありますよね。精神科の診療場面でも、患者さんに対して専門家的にはこうなっていますと言うと、『いや、あなたはそう思うかもしれないけど、わたしはこう考える』と言われる方が結構いらっしゃるのです。それは患者さんであることもあるし、付き添いでこられた職場の同僚の人が、自分の思う精神論みたいなものを述べられることは割とあることです。でもそんなこと、精神科以外の科では、まぁ滅多に言わないですよね。専門家の言ったことを信じるか、他の専門家に聞くかですよね。

お客さん

素人がわかりそうに思わない分野って、どんなものがあるでしょう?

村井さん

例えば宇宙工学なんて、ふつうの人は一家言もっていないですよね。

お客さん

星が好きな人はいっぱいいるけれども……。じゃあ逆に、専門家というのは何をもって自分の専門性を自覚するのでしょう…… 知識量なのか? 関わってきた時間の長さみたいなものか? それとも技術みたいなものなのか?

村井さん

もうひとつあるのは、たぶん資格ですね。

お客さん

それがあると、たぶんわかりやすいですね。

村井さん

資格というのは要するに形だけのことではあるんですけど、それでも、資格を持つ本人に対しても社会に対しても「専門性」を担保しているところがありますね。何を担保しているかというと、経験年数と知識です。一定の経験年数が受験資格になっていますし、試験の成績で知識を担保することができます。一応はそうなんですけど、よく考えてみると危うい土台の上にあることは確かですね。経験や知識や資格が十分だとしても、そもそもその分野そのものが確かなのか? と。

お客さん

精神医学でも、そういう視点はありますか?

村井さん

昔から繰り返し、疑いの目が向けられてきたように思います。ただ、そうした疑いの意見をさらによくみていくと、精神医学の専門性を疑う意見には二つの方向があるように思うのです。
ひとつは「他の医学の進んだ分野に比べると、科学としていい加減だ」という意見。証拠も少ないし、自然科学としての基礎がなっていない、ということがよく言われるんですね。私はこの分野の専門家ですので、そうした意見に対しては、いやそんなことはない、精神医学もけっこう科学的だと意見しなければならないのです。
そして、もうひとつの疑念があります。それは私自身見落としていて、最近ある方から言われてああそうだなと思った、まったく反対の方向からの意見なのです。「精神医学は本来サイエンスなどであるべきではない。それなのにサイエンスの体裁をとった、近代資本主義が生み出した悪しき行為である」みたいな意見です。
精神医学とは本来はこころとこころの触れ合いなので、科学の体裁などとるべきでない! と言って批判する人がいる一方で、反対側の人は、まだまだサイエンスとしての体裁が不十分で、もっと科学にならないといけない! と批判するのですね。

精神医学と歴史学、「ひと」を扱う学問領域のアプローチを語り合う

“おもしろさ”のツボ

お客さん

それは歴史学も同じかもしれないです。

村井さん

たぶんそうでしょうね。歴史学は僕の知る範囲だと、精神医学と同じ時期に同じ議論がありました。自然科学がどんどん発達して、19世紀の終わりくらいに割と本気で「すべて自然科学になるんじゃないか」という期待が高まっている時期がありましたね。
たとえばナポレオンがロシアに侵攻したのはなぜか? という問いへの自然科学からの答えとして、当時のロシアの地政学的条件とか気象条件とかいったことで説明するという方向に学問が振れたのではないかと思うのです。それに対して、ナポレオンがロシアに攻め込んだことをナポレオンの性格とかそういうことで説明するというやり方もあって、歴史の説明は、やはり個人の動機が大事だ、という意見も根強くあって、そうしたなかで、歴史学という学問がふたつに割れるということになった時期があったのではないでしょうか。
ちょうどこの時代に、精神医学にもふたつの方法があることに気づいた先人がいました。精神医学でも、個別の動機よりも、リスクファクターとか検査データとかいったものがはるかに重要だという専門家と、いやいや「こう思ったからこうした」という動機のほうが大事だ、という専門家になんとなく分かれていく流れができたのですね。いまでもその分裂が残っている点は、歴史学と一緒ではないでしょうか。

お客さん

人物史の流れと、必ずしもそのときの判断ではなくて法則のようなものがあるというような流れと。個人的には、わたしも最初あるいは最近は、人物がおもしろいと思っていました。つい最近までは制度とかがおもしろいというように変わっていて……。学問の流れとしては、理系的にやるのと文系的にやるのとで、あまり明確には分かれていませんが、基本的には「実証」が大事だということかもしれません。

村井さん

織田信長はあの時こう思ってこうしたんじゃないかな? とかいうのはダメなのでしょうか。

お客さん

だいたい一般的には、テレビでも「信長の判断」の感じのほうが受けると思いますけど……。研究としては、信長個人の判断だったとしても、「そう判断した、という証拠を持って来い」という考え方、それを「実証」ということばで表現しているかもしれません。

村井さん

僕はドイツに旅行したときに、ドイツの小さな町の歴史に、それこそ郷土史家的な意味で詳しくなって、向こうの研究者と話をしたんです。そして『よく知っていますね』と褒められて、それは嬉しかったんですけどね。でも『ぼくたち専門家の実際の研究では、そのときどこの村では税金をどのように課したとかいうことを地道に調べているだけです』と言われたことがあります。

お客さん

そうですね。おもしろい/おもしろくないは、やっぱり…… 調べたりした作業の上に「どう表現するか」というところにも分かれ目があって……。

村井さん

本当に統合された視点というのは、ちゃんと証拠を置いた上におもしろい解釈があるみたいな……。その点でも、精神医学と歴史学はかなり似ているところがありますよね。

お客さん

あくまでも実証の上に“物語”を描くという。

村井さん

こうしたことを考えるときに、私たちがどういう観点からそれぞれの研究や書物を評価しているかというと、やはり「専門性」ということを評価していると思うのです。特に、自然科学から見た専門性という場合には、「客観性」が重要視されますよね。じつは客観性という言葉にはいくつもの意味があるのですが、そのなかに「人によって異なる意見が出てこない。誰がデータを取っても出てくる提案は一緒だ」という意味での客観性が、自然科学では重要視されています。

お客さん

最後にニュートラルな主張が出てくることこそが、よい自然科学である、と。

村井さん

それに対して客観性を重要視しない分野では、「あなたの言っていることと私の考えは別だ」ということを皆が堂々と言っている。ロボット工学とかでそんなことを言わない理由としては、「自分にはよくわからないから」というのもあります。ただ、もうひとつ、“真実はひとつのはずだ”という前提があるので、“いろんな意見がある”ということが前提とされていない、という理由もあると思います。

お客さん

なるほど…… そうか。

(2018年10月30日)

ナチュラル感があふれるGROVING BASEのカフェでトークは続く…

「真実は一つだろうか? 後半」の掲載は2019年1月22日(火)
【木立のカフェ】次回のお喋りは1月25日(金)の予定です
興味のある方は【お問い合わせ】フォームからご連絡ください。

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