こころの素粒子をさがして――ちいさな存在感覚の心理学
第1話: ここらで“ひと息”――まえ半分
第1話: ここらで“ひと息”
話はんぶん/まえ半分〔by 金子周平〕
息を吸って、吐いている。いまも。つぎの瞬間にも。生きていくために必要なものを、瞬間、瞬間、少しだけ摂り入れて、そしてまた少しだけ吐き出している。「息をするのも面倒だ」なんて思ったことはないが、なにせ効率を求める現代社会だ。呼吸にも効率を求めるような発想があってもおかしくない。
しかし、どんなに効率的にやりたいと考えたとしても、数時間分の酸素をまとめて身体の中に貯めておくことなんて、できない。そして一日の最後にまとめて二酸化炭素を吐き出すなんて芸当も、できない。呼吸を止めたままでは生命を保てない私たちなのだから、結局は途切れることなく少しずつ、大気から酸素をもらいながら生きていくしかないのだ。
そうして小さく細かく、私は環境から恵みをいただき、また大気に放出して、瞬間を生きている。
今朝は何時に起きただろう? そこから数えたとしても、この瞬間までのあいだに、いったいどれだけの呼吸をしてきただろう? 目覚める前にも、夜の間ずっと呼吸をしていたのだ。昨日も、一昨日も。きっと気の遠くなるほどの呼吸をしてきただろう。そうして呼吸をしているから、私たちはいまも生きている。生きているから、いまも呼吸をしている。
生まれてこの方、何十年も途切れることなく、この呼吸という運動を私はしてきているのだ。
今やすっかり大きく成長した娘だが、生まれたとき娘は、肺に溜まった羊水を吐き出すことができず、NICUに救急車で運ばれることになった。血液中の酸素飽和度が90%後半でないと安心はできないようなのだ。生まれたばかりの赤ん坊の指先につけた機械を通して、デジタルで示されるパーセンテージがひとつ上がったり下がったりするのを見つめては、祈るしかない時間を過ごした。
呼吸というのは、適当に吸ったり吐いたりしているもので…、場合によっては一瞬止めてみても何ら支障のないもので…、大雑把なもので…・と思い込んでいた。そんなことはない、とても繊細なものだったのだ。だいたい酸素が取り入れられていればいいわけでもなく、常に高い水準を保たなければいけない活動だったのだ。当たり前のものでもなければ、蔑ろにしてもいいものではなかったのだ。
この一瞬の酸素の数パーセントが、いのちを左右しかねないのだ。
