こころとからだの学校
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第4シリーズ《身になる禅のことば》
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案内文
Webサイトでのオープン講話《身になる禅のことば》を、文章と動画の二本建てでお届けすることになりました。「禅語」というのは、よく掛け軸などに書かれていますね。人生論的で精神論的な内容が多いのですが、私は“ソマティック禅”の実践者なので、「ボディ」の側面から禅語を論じてみたいと思います。
柔軟心(その壱)
1回目は【柔軟心】という禅語について、短い文章を書きました。
若き道元が中国に渡って、これこそが正師自分にとっての師)であろうと確信した禅師に、如浄という人がいて、彼とのやりとりを記録した『宝経記』という書物があります。
そのなかに出て来るかたちで、私は初めて【柔軟心】という言葉を知りました。曹洞宗では「にゅうなんしん」と呼んでいます。
如浄が『何世にもわたって、あれやこれやの功徳を修行して、心の柔軟を手に入れた』と言うので、道元が『では、いったいどのようにしたら心が柔軟であることができるのでしょうか』と聞くわけですね。
それに対して如浄の答えは、『これまでの仏や祖師たちが体現した心身脱落を、納得のいくまで修行することが、柔軟心である』というものでした。道元はそれに非常に感激して、師に来拝して、その言葉を受け取ったそうです。
“心身一如”というのが禅の大前提ですので、柔軟な「心(シン)」と言えばその裏には必ず柔軟な「身(シン)」があるのではないか、と私は思っています。
「心こころと身みとがそれぞれ別々にあって、それが一つになってはたらく」
というのが、常識的な理解なのですが、禅や、東洋的な道教、老荘思想などでの身心一如という考え方は違っている、と僕は思います。「心こころというのは目に見えないはたらきで、その心のはたらきが形になって具体的に表れている有様を、身みと呼んでいる。そういうかたちで“一つ”である」というふうに理解するほうが、もともとの意味に近いのではないかと思っているのです。
心のない身はないし、身のない心はない、という意味での“心身一如”だろうと、僕は理解しています。その前提で如浄は、先ほどの答えにある“身心脱落”について、「それはお前のやっている座禅だよ」と別のところで答えています。
ですので「柔軟な心=柔軟な身」を直接に学ぶのが座禅である、ということになります。
次回も、続けて【柔軟心】についてお話ししたいと思います。「柔軟な“身(み)body”とは、どういうことか?」ということについて考えてみたく思います。
▲【オープン講話】〈身になる禅のことば〉vol.1 柔軟心–にゅう・なん・しん [その壱]
柔軟心(その弐)NEW!
前回の《柔軟心~その壱》でお伝えしたように、柔軟心(にゅうなんしん)というのは、「柔軟な心はすなわち柔軟な身でもあるだろう」ということです。つまり、「目に見えない“心の柔らかさ”というのは、目に見える“身体の柔らかさ”と表裏一体になっているだろう」ということです。
僕はずっと「生きている体って不思議だな」とずっと思っています。禅というのはそういう“生きた体”も忘れていません。「身を以て修行する」ことを重視しているところに、魅力を感じています。この「ボディに関わる身の修行」、あるいは「身を修行することにかかわる禅語」を見つけて、皆さんとシェアしていきたいと思っています。
“柔らかい体“とはどういう体でしょう? バレリーナや体操選手を思い浮かべると、脚が180度開いたり、後ろに後屈したり、というような柔軟性をパフォーマンスして見せるようなイメージもあります。けれど、禅の文脈での“柔軟な体”(柔軟心に裏づけられたボディ)というのは、そういう「関節の可動域」というような数値化される現象ではありません。
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僕は実はお坊さんになる前、大学院生の5年間、野口三千三先生が始めた「野口体操」を習いました。野口体操の創始者から直接、学ぶという幸運に恵まれたわけです。
野口体操は「こんにゃく体操」とも言われているように、“柔らかい動き”というのが探究課題のひとつでした。「いつでも硬い」のはもちろん硬いのだけど、「いつでも柔らかい」というのも実は硬い。先生はそう言っていました。「硬くなるべき時にはこれ以上ないぐらい鋼鉄のように硬くなり、柔らかくあるべき時は水のように柔らかくなる」というふうに、硬さと柔らかさのあいだを“自由自在に適宜行ったり来たりできる”というのが本当の柔らかさだと考えている、というようなことを仰っています。
柔軟心。その「しん」は身の<しん>でもあるし、心の<しん>でもあるのですけど、僕の「ソマティック禅」は、野口三千三先生の“からだ”の考え方が大きなベースになっています。ただ単に柔らかいというイメージではなくて、「硬い」と「柔らかい」という二つの相反するあり方を臨機応変に自由自在に行ったり来たりできる、その“滑らかな”行き来の仕方そのものを「柔軟」とイメージしたいのです。
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一回目でお話ししましたように、僕が「柔軟心」という言葉を初めて見たのは、道元さんの記録でした。そこには「身心脱落」という言葉も出てきました。身心脱落というと、身も心も消えてしまう神秘体験みたいに解釈されることがありますが、僕は「身心から“力み”や“こだわり”が脱落する」という風に読もうと思います。身心の状態が、緊張や収縮を抱えた「自分で自分を縛っている」状態から、自由自在に本来のポテンシャルをフルに発揮できる状態にシフトするのを「身心脱落」と理解したいわけです。
道元禅師の言葉に次のようなものがあります――「ただ我が身をも心をも放ち忘れて仏の家に投げ入れて仏の方より行われてこれに従いもてゆく時、力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と。
1. 最初の部分は「放ち忘れる」「投げ入れる」という動詞があるように、力みやこだわりを手放していく。これが、さきほどの身心脱落。
2. 次は、「力みやこだわりが脱落して自由な身心になった」と。これが僕は“柔軟な身心”ではないかと思っています。
3. これをありがたく受け取って、力みやこだわりから脱落して柔軟になった身心をフルに使って生き生きと生きていく。
僕はこの1,2,3が同時進行しているのが坐禅だと理解しています。「身心脱落」の坐禅に“柔軟心”が立ちあがっている状態、というように理解するわけです。
ということで、坐禅に繋げて“柔軟心”のお話は終わりたいと思います。次回はまた別の「身になる禅語」についてお話ししたいと思います。 お楽しみにしてください。
▲【オープン講話】〈身になる禅のことば〉vol.2 柔軟心–にゅう・なん・しん [その弐]
講師紹介
講師:藤田一照
愛媛県生まれ。
東京大学大学院(発達心理学を専攻)在籍中に坐禅に傾倒、29歳で得度。 33歳で渡米し、17年半にわたって坐禅を指導。2005年に帰国後も、坐禅の研究・指導にあたる。曹洞宗国際センター前所長。Starbucks、Facebook、Salesforceなどアメリカの大手企業でも坐禅を指導する。
2017年、オンライン禅コミュニティ「大空山磨塼寺」開創。
最新著書:『学びのきほん――ブッダが教える愉快な生き方』(NHK出版,2019年)
最新訳書:『[新訳]禅マインドビギナーズ・マインド』(PHP研究所, 2022年)
『禅的修行入門――誰でもあらゆるものから自由になれる秘訣』(徳間書店, 2023年)
●公式サイト http://fujitaissho.info/