こころとからだの交差点【終了】
〈心身〉への違和感 ―交差点は危ない―

[磯野真穂]

 こんにちは。 齋藤先生からバトンを受け取った、三人目の筆者の磯野です。
 専門は文化人類学。年は両先生方より一回りほど下だろうか。岡田先生とは、まったく面識がないため、いきなりこんなことを書くのもいかがなものかとは思うが、これまでに出会った人々が、私を形容するために使った言葉を並べてみたい。

トリックスター
        ワイルドカード
               ジョーカー
                     パルプンテ

※パルプンテ: 知らない人のために説明すると、RPGゲーム「ドラゴンクエスト」の呪文の一つである。唱えた者にも何が起こるかわからないので、実戦ではほとんど使われない。

 20代のころは『変わってるね』と言われるのが嫌で仕方なく「ふつう」にあこがれていた。しかし30を迎えるに当たり、「これはきっと褒め言葉に違いない」と無理やり受容して、今に至る。
 岡田先生は百戦錬磨の臨床を積んでいる方と確信をするので、きっとこんな単語を見てもびっくりはしないと思うのですが、リレーエッセイの一人は、こんな人です。よろしくお願いします。

 さて、両先生はこのリレーエッセイを、医学生の頃まで立ち返りながら、「心をみることを忘れてしまった医学」に対する批判的視線を入れつつも、どこかノスタルジックな、やさしい彩でエッセイを始められている。
 だが、三番目の私は、少々危うい切り口からこのエッセイを始めてみたい。

事故は交差点で起こる

 交差点に信号機があるのは、それが危ない場所だからだ。 何かが交通整理をしないと、ほんとうに人が死ぬのである。
 LGBTが、時にいかがわしい存在としてみられるのは、生物的にも、社会的にも美しく分断されているはずだった性別上の秩序を乱したからである。一人の体の中に、男と女の両方の要素が入っていたり、結ばれるのは男女であるはずなのに、男男になったり、女女になったりする。
 「これはなんだか、嫌だ」――だから「異常な存在」ということにしたり、いないことにしたり、「少子化を促進させる!」とかよくわからない警告を発したりして、秩序を保ちたい一群が現れるのである(左利きのハサミが売り出さると左利きが増える、とでもいうのだろうか。私は左利きだが、左利きのハサミを売っている文具店で仲間が増えた現象は、いまのところお目にかかっていない)。このような事例は枚挙にいとまがない。

 私の実家、安曇野市には、道の各所に道祖神がある。1mほどの石に男女の神様が寄り添って掘られていることが多い(写真はそうでなく申し訳ない……)。
 今は単なる観光スポットになってしまい、観光スポットを作り上げるため道祖神をとりあえず道端に「置いてみる」人も出てきてしまったので、安曇野生まれとしては少々がっかりではあ るが、もともと道祖神は、集落と集落の境界に置かれていた。外から危ないものが入ってこないよう、守ってくれていたのである。

Watch your both side !

 その意味で、道祖神と交差点の信号機は、役割を共有する。
 人間は好奇心の塊であるが、同時に異なるものを直感的に恐れる存在でもある。 古来から人は、自分とは異なる何かと出会う場としての“交差”をおそれていたのである。
 そればかりではない。交わることの危険さは、臨床現場でも見て取ることができる。
 私は、医療者ではない人間として、さまざまな診療科の陪席をさせてもらっている。すると、ここでも危険な“交差”の兆候が見える。
 いわゆる身体を専門にする医師は、「精神科医はなんでも心のせいして、身体への配慮を忘れがちだけど、重要な身体疾患が隠れていることもあるから注意をしないといけない」、とつぶやく。
 一方で、心療内科医や、精神科医は、「心をみられる医師が少ない」と嘆く。うまく住み分け、大人の対応をすることで、争いは避けられてはいるものの、交差点の火種は現代医療の現場にも存在しているのである。

 さて、“交差点”を冠するこのリレーエッセイはどうだろう。
  実はこのリレーエッセイの鍵は、齋藤清二先生にある、と私は考えている。なぜなら私は岡田先生とまったく面識がない。それだけでなく、我々の専門が、精神分析と文化人類学という、時に互いに刺激をしあい影響を受け、しかし完全にあい入れることのない学問である(しかも他方は、トリックスターの名を称したことのある人類学者だ。大丈夫だろうか。心配だ)。
 したがって、岡田先生と私の論が奇妙なかたちで交差すると「事故る」のである。いや、齋藤先生も精神分析をバックグラウンドにお持ちなので、もしかすると危険な交差をするのは、齋藤先生と 私かもしれない。
 だが、齋藤先生は私を知っており、このリレーエッセイの著者のひと人に私を推薦してしまった立場にあるので、何か起こった場合、“交差点”の交通整理をせねばならない立場になってしまうだろう。

ということで齋藤先生、改めてよろしくお願いいたします。

《心身》への違和感

 さて、「心身医学」の重要性を強調する両先生にさっそく問いを投げかけてみたい。

《心身》という言葉に違和感はないですか?

 私は《心身》に違和感が大ありである。そればかりか、《心身》という言葉が、人間についての いろいろな問題を引き起こしているのでは、と思うこともあるほどである。
 白黒、男女、質と量、いった言葉は、カテゴリーとしては同一ではあるものの二つは対立概念であることを示している。当然ながら心と身体もここに入り、だからこそ冒頭で書いたような、「心が診られる医者」「身体しか診られない医者」といった言葉が現れる。
 しかし《心身》は、心と身体を的確に捉えているのだろうか。
 《心身》という言葉により私たちは、自分の中に「心」という場所「身体」という場所があると想像する。 確かに、身体は空間を占める場所として存在する。でも、果たして心はどうだろう? どう考えても、心は場所ではない。なのになぜ、「これは身体でなく、心の問題」「これは心でなく、体の問題」といった言い回しが普通になされるのだろう。

 ここで思い出すのが、哲学者ギルバート・ライルである。というか、私の上記のふわっとした違和感に言葉を与えてくれたのがライルであった。
 ライルは著書『心の概念』〔1949年〕のなかで、デカルト以来続いた「心身二元論」を、「機械の中の幽霊のドグマ」という有名な比喩を使い痛烈に批判する。身体という機械の中に、身体という心 を操る幽霊がいる。そんな幽霊などいないのに、皆がそれに振り回されているというわけだ。
 ライルは、心身二元論の誤謬を説明するため、「高校を歩き回った結果、教師は見つかりました が、校風は見つかりませんでした」と言いながら困っている人の例を挙げる。
 この例は非常にわかりやすい。学校を歩き回っても、校風にばったり出会ったりはしない。だから、体のなかをいくら探しても心には出会えない。
 校風の話の奇妙さを、私たちは直感的に感じることができる。
 しかし私たちは、「心のなか」とか、「心の問題」という言葉には違和感を感じない。これは私たちが身体のなかに「心」という場所を想定し、それを前提に生きているからであろう。

 心理学・精神分析も、心を〈場所〉のように扱っているように、私にはどうしても見えてしまう。意識や無意識といった言葉から、心という〈場所〉のなかにさらなる小さな箱が想定されていることがうかがえる。〈場所〉としての心のイメージから心理学や精神分析は逃れていると言えるだろうか。
 私は心については、〈場所〉よりも〈現れ〉と表現する方がしっくりくる。世界との接合面に、形を変えて、現れる表現形式としての心である。したがって心は、何かと接しているときにしか現れない。校風が、見ようとしている人と学校との接合面に現れるように。
だから、心だけ取り出すことも不可能である。その人が接している人、接している環境が変化すれば、現れ方も変わるのだから。

 私はこのように考えるので、近年進む「心の病気」の増加に違和感を覚えている。
 この場合の「増加」とは、人数ではなくラベルの増加である。そのラベルにより助かっている人もいる。 救われた人もいる。それはもちろん認めたうえである。
 ある人間の心に「発達障害」「人格障害」「摂食障害」というラベルを貼って、「◯◯病に典型的な症状」といった言葉で、心の見方を固定してしまうこと。それぞれのラベルに対して適切な「対応の仕方」を専門家が教えること。
 そんな対応の仕方、世界の見方は、「心という世界との接合面での現れが、その人が出会う場所・人々によって、いかようにも変わりうる」こと。「心という〈現れ〉が流れ去り、形を変えてまた〈現れ〉る」こと。そんな“こころ”の面白さを減らしてしまうのではないだろうか。

 

私はこのように考えているのですが、岡田先生、齋藤先生、どう思われますか?

マスター

磯野真穂(いその・まほ)

国際医療福祉大学大学院 保健医療学専攻看護学分野准教授
1999年 早稲田大学人間科学部卒業(スポーツ科学)
2010年 早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了
こころの分野は、文化人類学(医療人類学)
からだの分野は、ボクシング(ライセンス取得 2013年)
著書
『なぜ普通に食べられないのか』(春秋社 2015年)
『医療者が語る答えなき世界』(ちくま新書 2017年)
●磯野真穂 公式サイト
http://www.anthropology.sakura.ne.jp/

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