想定外の予定調和(2)

[藤中隆久]


 カウンセリングには“医療”的な方向を向いているカウンセリングと“教育”的な方向を向いているカウンセリングがある。
 “医療的”とは「再現可能性」を志向するもので、毎回おなじ結果に到達することができる方法論の確立を目指す。この場合の目指すべき結果はおおむね自明であり、例えば不登校ならば、クライエントが「学校に行く」というような結果だ。
 “教育的”な方向だと、カウンセリングをクライエントの「一度限りの人生」を共にすることと捉えて、クライエントが現時点において納得する結論に到達することを目指す。この場合、納得する結論が何なのかは、やってみなければわからない。

 このふたつの志向は方向が反対だといってもいいけれど、たいていは、相反する方向性を自己のなかで何とか統合しながらカウンセリングをしているんじゃないかな。どちらを重視するかは、それぞれのカウンセラーの個性かもしれない。でも、一方の志向しかないカウンセラーはダメで、特に、医療志向しかないカウンセラーはダメ、と僕は思う。

 どうしてかというと、人間の「変化」というものは、人間“内”のさまざまな要因と人間“外”のさまざまな要因が複雑に絡み合った結果として起こるものだから。人間を変化させることを目的とするものがカウンセリングだとすると、その変化が「治療」的な変化であれ「成長促進」的な変化であれ、カウンセラーは、複雑系である人間“内”要因と、複雑系である人間“外”要因の複雑な相互作用のなかで、複雑に変化する人間を想定してかかるしかない。単純系の線形モデルをベースにもつ医療志向だけでは、カウンセリングにはならない。

「クライエントが苦しむ原因を心理学の専門知識を駆使して解明してゆき、原因を取り除くための治療方針を考え、それをクライエントに丁寧に教えてあげると、クライエントはその方針を受け入れて実行して、その結果、クライエントが変化してゆく」

 こんな単純系の線形モデルのカウンセリングでは、カウンセラーからクライエントへという一方通行になりがちで、クライエントは受動的になりがちで、クライエントにとってそんなのは、退屈だったり、苦痛だったり、ピンと来なかったりするものにしかならないんじゃないかな。
 そもそもカウンセリングっていうのは、正しい答えをクライエントに教えてあげる行為じゃないので、メールや紙面で相談されたことに答えてあげたりすることは、カウンセラーはできない。クライエントと“いま・ここ”のやりとりをしながら進めるかたちじゃないと、カウンセラーのカウンセリング能力は発揮されないと思う。

イルカの写真、イルカがこっちを向いている
“いま・ここ” のやりとりを言葉にしてみよう

自分の感じをモニターして「言葉」に

 カウンセリングは言葉のやりとりで進められてゆく。カウンセラーの一言一言で、クライエントの気持は変化してゆくし、クライエントの一言一言で、カウンセラーの気持も変化してゆく。“いま・ここ”でクライエントが発した言葉に“真剣に”対応しようとすればするほど、カウンセラーが最初に想定した結論に着地できなくなる。結果的にはそこに着地したとしても、プロセスは全く違っているだろうし、その都度その場で、切り拓きながら創ってゆくしかない。
 その都度プロセスを創るためには、カウンセラーはクライエントのどんな言葉に対しても、その言葉によって引き起こされた「自身の内なる感覚」をモニターし、その感覚を自分の言葉にして紡ぎ出せるようになっておくべきだろう。カウンセラーとクライエントが、常に“いま・ここ”で感じている自己の感覚を言葉にしながらやりとりして進められていくカウンセリングは、クライエントにとっては、エキサイティングであり、楽しくて退屈せず、快感となるだろう。そんな質の高い会話の末に出てきた結論は、クライエントにとって、ピンとくる納得のいくものになるだろう。そして、質の高い会話自体が、クライエントの気持を元気にもするだろう。

 そう考えると、カウンセラーには、クライエントのどんな言葉に対しても「自分が感じて考えていること」を言葉にして反応できる能力が必要ということになる。さらには、その能力以前に、自分が感じていることや考えていることの基になる知識構造がしっかりと存在している必要がある。
 何も考えがない、何も感じない人では、それを言葉にして返そうにも返しようがない。だからカウンセラーには、心理学の専門知識はもちろん、一般教養的な広い知識が必要ということになるのである。自分の考え方の基が知識として構築されていてこそ、クライエントのどんな言葉にも反応できる。ゆえに、どんな言葉に対しても、すぐに反応できる反応性と構造化された知識をもっていることがカウンセラーの要件ということになる。

寄り添って泳ぐイルカ2頭
感覚をモニターして、相手の動きに応じるには?

シナリオのない「相手の動き」

 これは、古武道における形稽古や、文楽の人形遣いの稽古に共通する考えだろう。
 古武道では、戦いを現代武道のような「試合」というものに限定していない。想定外の攻撃を仕掛けてきた相手に対して、瞬間的に最適の動きで攻撃を受け流し、次の瞬間に最適の反撃をすることを想定している。攻撃を受けた瞬間に“いま・ここ”で、自分の内部の全身の力のバランスを確認し、次の瞬間にどう動けば現在の力のバランスを活かして敵を制することが出来るかを、身体と、心と、脳で判断して、身体を判断どおりに動かせるようになるために、形稽古をおこなう。
 みずからの全身の力のバランスを瞬時にモニターする能力と、次の瞬間に最も合理的な動きが何であるかを判断する能力と、そして、そのとおりに動ける身体にしておくために、形稽古はある。事前に自分が想定したコンビネーションブローの動きができるようになるためのシャドーボクシングの練習とは、本質的に異なるのである。
“いま・ここ”でクライエントと言葉のやりとりを繰り返すカウンセリングと、古武道が想定する戦い方とは、非常によく似ている。他にも、お互いがやりとりをする真剣勝負ならば、必然的に、同じ発想の方略が有効であるということだろう。

 入試における面接も、本来、面接官と受験生とが言葉のやりとりをする真剣勝負の場であるはずで、ならば、受験生は、相手がどんな人格の面接官であろうと、どんな反応をする面接官であろうと、「一律に暗記してきた想定問答集を、一方的に、お芝居のセリフのごとく流ちょうにまくしたてる」などという戦略は、捨てたほうがよい。そのスキルを磨けば磨くほど、不合格に近づいてゆく。
 どこからどんな質問が来ても、その場ですぐに自分の頭で考えられるための知識を蓄え、その知識を構造化し、その知識に照合して出現した感覚を「言葉」に変換できる能力を高めることによって、対応したほうがよい。想定問答集を暗記するよりも、ずっとクオリティの高い応答ができる。構造化された知識と、そこにアクセスして「言葉」を紡ぎ出す能力こそが、最強の武器となる。
 陳腐な想定問答集を暗記し、それを流ちょうにしゃべる練習を重ねてきた受験生に対しては、いくら僕が人間的に優れた面接者であったとしても、多少、不機嫌にもなるというもんだ。まあ、出来るだけそうならないように努力はするけど……。
 僕の質問に対して、受験生が“いま・ここ”で、自分の言葉を一生懸命に紡ぎだそうそしているならば、純情高校生がいくら口ごもっても……、あるいは反応が遅くても……、あるいは、もしかすると純情ではなくても……、むしろそれを好ましいと受け止める評価基準や度量も、僕にはある。覚えてきたセリフをお芝居のごとくペラペラとまくしたてられるよりは、好感度は何倍もアップする。好感度だって、大事だし。

水面をジャンプする5棟のイルカたち
結果のわからないジャンプ。そのための積み重ね

着地点がわからない「からこそ」

 教育の結果がどこにたどり着くのかは、誰にもわらない。それは人生と同じだろう。最初から正解があって、その正解に向かって正しく努力を重ねれば必ず、誰もがその正解にたどり着ける、というものではない。
 「だったら、努力しても意味ないから、しないもんね」などと開き直るふざけた野郎もときどきいるみたいだが、とんでもないことだ。どこに着地するかはわからないからこそ、どこに着地してもいいように、日々努力を重ね、知識を身に着け、構造化しておくのである。どうなるかわからない人生のために、知識という最強の武器を身に着けておくのである。
 そのためには、日頃の学びがいちばん大事。毎日の学びの積み重ねによって、知識は自己内に構造化されてゆく。入試の面接でも、構造化された知識こそが最強の武器になる。想定問答集を暗記するなどという小賢しい方略で対処するんじゃなくて、常日頃から、日々の学びを一生懸命に積み重ねるという正攻法で、面接も人生も対処しなさい!と僕は言いたいの。

 日々の学びを一生懸命に積み重ねなさい! これが僕のいちばん言いたかったこと。でも、これほど普遍的で本質的な教育論もないだろう。今、僕は、世界中のどこに行っても通用するような常識に、どうやら、着地してしまった気がする。教育はやってみなければわからない、カウンセリングもやってみなければわからない。それをここまで強調してきたにもかかわらず、つれづれなるままに“いま・ここ”の感覚に従って文章を綴ってきて出てきた最後の結論が、「日々の学びが大切」という常識的も最たるものになった。
 こんな結論は、書く前からわかっていた気もする。予定調和といってもいい。文中では「世界は“想定外”に満ちているから、やってみなければ結果はわからない」って強調しながら、書いているうちにたどり着いた結論は、“予定調和”的になってしまった。矛盾している気もするが、でもまあ、そんな小さなことを気にしていたら、人としての成長がなくなるので、ここは、前向きに考えることにする。――キューバでは、歌えるか、踊れるか、たたけるかが、男らしさの基準だし……。

 わが子をジャニーズに入れたいと思って教育しても、結局はオタクになってしまったりする。私だって、教育に関しては、まあ専門家なのだが、その私をしても、ジャニーズへの方略は立てられないのである。しかし、もし、それがわかっている人がいるならば、今からでも遅くないので私に教えて欲しい。できれば、こっそりと。


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)

1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
いろいろあって1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
西にシフトして1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南に下りて1999年から 熊本大学教育学部 2015年から教授
6フィート2インチ
現在200ポンド:当時170ポンド(第四話「日々これ想定外(その弐)」を参照)