想定外の予定調和(1)

[藤中隆久]


 大学入試の面接対策として、想定問答集を作ってそれを一生懸命に暗記している純情高校生にしょっちゅう出くわすので、『そんな無意味なことはやめろ』と僕は言っているのだ。
 しかし、僕ごときがそんなことを言ったところで、純情高校生たちは決して聞きやしないだろうし、純情高校の先生たちも、今後もずっと、想定問答の指導を続けるだろう。そんな対策をする高校生や先生の気持も、わからなくはない。彼・彼女らにしてみれば、僕なんか、時おり非常識なことを言いだす意味不明のシェキナベイベェなおっさんみたいなもんだろう。
 でも、繰り返すけど、僕は決して非常識なことを言っているつもりはないし、むしろ、教育についての最も本質的なことを言っているつもりだ。そのために、古武道の形稽古や文楽の人形遣いの例なんかもあげて、本質についてとてもわかりやすく説明したつもりなんだけど……『ますます、わけがわからなくなった』という声が、どこからともなく聞こえてくる。
 おかしいなぁ……。そういえばシェキナベイベェのおっさんも、自分の言ってることこそがロケンロールの本質だ! みたいなことを言ってたけど……。

 

望んだ結果を得るため

 ということで、前回の話を、視点を変えて、もう少しわかりやすく、そのうえで品格も落とさず解説してみたい。
 「教育」ということについて考えてみたいのだが、教育を専門的な行為と考えても良いのだろうか? 専門的な行為を「専門的な知識とスキルを駆使して、望みうる結果に到達させること」と考えた場合、教育の専門職の人に、そんなことが出来るのだろうか?

 『その程度のことは、まあ軽くやっちゃうね』と断言しているのが、ワトソンという人である――『わたしに健康な1ダースの赤ちゃんを与えてくれれば、医者でも、弁護士でも、芸術家でも、泥棒でも、何にでもして見せる』と豪語している。
 ワトソン君も、泥棒にはしない方がいいぞ。いくら行動主義だといっても、やって良いことと悪いことはあるからな。でも、本当にそれができるのならすごいけど『そんなことは不可能だ』と、僕は断言してもいい。
 僕の記憶が確かなら、このワトソンという人は、富豪一家の周辺に出没する犬に関する話で、シャーロックなんとかという人から『残念ながらワトソン君、君の結論はほとんど間違っている』と言われているような人なのである。この場合は犬の話だったが、きっと人間に関する話でも、ワトソン君はほとんど間違った結論ばかり言っている人なのだろう。だから、ワトソン君が言った人間に関する結論も、間違いだと僕も思うのだ。(……ところで、僕の記憶は確かなのだろうか?)

ワトソン君にだって わからない
ワトソン君にだって わからない

 どうしてワトソン君の言っているようなことは不可能か? といえば、それは、教育という行為が結局「科学」にはなりえないからだと僕は思う。
 科学とは「同じ条件下で同じことをやれば、必ず同じ結果になる」こと。同じ温度と同じ気圧のもとで、同じ量の物質を反応させれば、いつも、同じ物質が同じ量だけ生成されるという「再現可能性」が物質においては保証されていて、これこそが科学。ところが、人間を思いどおりの結果に至らせることは、不可能だろう。どれほど完璧な教育をしたところで、思いどおりの結果になってくれないのが人間なのだから。
 うちの子は将来ジャニーズに入るんじゃないか?! と思って僕は歌と踊りを教えたのだが、すんでのところで、ジャニーさんから『ユー、ジャニーズに入っちゃいなよ!』という電話を戴くことは叶わなかった。永遠にお誘いがなくなったことを悟ってか、うちの子はジャニーズどころか、最近、かなりオタクっぽくなってきている気がする。
 そう。教育でどのような結果に行きつくのかは、教育してみなければわからないのだ。物質ならば思いどおりの結果を得ることができる。しかし、人間を思いどおりの結果に至らせるなんて、いくら完璧な教育をしたとしても、やっぱりできないのだ。

 

予測不可能な変化

 医者も、人間を変化させて思いどおりの結果に至らせようとする仕事だ。医学には「科学」を指向してきた歴史があり、かなりの「再現可能性」を達成してきたといえよう。糖尿病の患者には食事療法とか運動療法とかが効果を上げる。それでも効果が上がらなければ、インシュリン投与で効果が上がる。結核菌の感染症ならば、抗生剤を投与することで効果が上がる。
 つまり、人間に対してどうすればどのように変化するかが解明されているので、血糖値を下げるとか結核菌を死滅させるとかいう結果に到達させるための、具体的な方略を医者は立てることができるのだ。血糖値が高いと、あるいは、結核菌が体内に増殖すると、人間にさまざまな悪影響を及ぼす。その悪影響の要因が、血糖値とか結核菌とかに限定されていることが明らかな場合、そして、その要因を取り除くことが単純な方法論で達成できる場合には、医学は大きな効力を発揮する。

 ところが、教育では、どうすれば人間はどのように変化するかがわからないのである。だから、不登校の子どもを学校に行かせるための具体的な方略を立てることは困難だし、そのような方略を立てることに、そもそも、どれほどの意味があるのかさえ、不明である。
 不登校の子どものカウンセリングをしたら、結果として、学校に行くようになることもありうる。あるいは、子ども自身が、学校に行かない人生を決断するということもありうる。どの結果に到達するのかは、カウンセリングをやってみなければわからないし、どの結果が正解かも、やってみなければわからない。学校に行けば即ち正解とはいえないし、学校に行かない人生を選んだならば即ち正解ともいえない。

自然のなか 正解のない道
自然のなか 正解のない道

 医療行為ならば、血糖値を下げるとか結核菌を死滅させることは紛れもなく正解である、とはっきりしていて、その正解に到達させるための方法論も、はっきりしている。ところが、教育においては何が正解かもはっきりしていなくて、その正解に到達させるための方法論もはっきりしていない。
 あるカウンセラーがある不登校の子どもをカウンセリングして、その結果、その子が納得して学校に行くようになったとしても、では「同じようにすれば、どの子も学校に行くようになるか」というと、そんな普遍性は示しえないだろう。同じクライエントに対してさえも、同じカウンセラーが全く同じ結果をもう一度出してみることもできないのである。逆に、同じカウンセラーと同じクライエントがもう一度同じようなカウンセリングをやったら、その子が学校に行かない人生を決断することだってありうる。
 カウンセリングとはそのようなものだ。そのとき出された結論は、そのカウンセリングにおける一回限りの事象なのだ。

~次回に続く~


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)

1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
いろいろあって1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
西にシフトして1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南に下りて1999年から 熊本大学教育学部 2015年から教授
6フィート2インチ
現在200ポンド:当時170ポンド(第四話「日々これ想定外(その弐)」を参照)