第六話 心のありか、心の様相

[磯野真穂]


 すでに私で六走目に達したリレー。
 まず、二巡目最後の私でこのエッセイに大ブレーキがかかったこと、岡田さんと齋藤さんにお詫びしたい。前回何を書いたか忘れていてもおかしくないほどの時間が過ぎてしまった。

 おさらいをしておくと、「心身という言葉に違和感はないですか?」という私の問いに対し、岡田さんも齋藤さんも「そのような違和感を感じたことはない」と率直にお答えくださった。そしてそのうえで、たいへん誠実なエッセイをそれぞれの専門性から展開してくださっている。やっぱり先輩ってありがたい(加えると、齋藤さんがあのマニアックでかつ利用頻度も低い呪文「ザメハ」を知っていたことに驚きを隠せない。一度ドラクエ談義をさせていただきたいものである)。

 しかしそのような返信をいただいたにもかかわらず、当の私が大ブレーキをかけてしまった。繰り上げスタートになってもおかしくないレベルで六走目のバトンを持ちっぱなしにしていた訳である。いったい私はこの間、何をしていたのか? ――ぼんやりしていたわけではなく、不思議な巡り合わせ、魂全開の上半期を送り、その結果、下半期はその抜け殻のようになっておりました。

 このためどうにもこうにも手がつけられず。
 ごめんなさい。


心があらわれる処

 さて今日は、四走目の岡田さん「第四話 心と身体の空間」の言葉から始めたい。

ラベルが理解を妨げる理由は、ラベルは対象物を整理するために対象物の表面に「付けるもの」あるいは「貼るもの」であり、それは、本質的に中身を覆う行為であるからである。

 岡田さんがいうように、ラベルとは実に便利なものである。名札で世の中を腑分けすることによって、世界が整理され、わからないことがよくわかるようになったような気がしてしまう。実際にそれでわかることも多いのだが、岡田さんはその裏にある「ラベルの陥穽」を的確に突いてくださっている。
 そのような目線で三走目から五走までの我々のやりとりを何度か読み返すと、“心”というラベルによって覆われていた世界が見えてきた。

 まず精神分析家である岡田さんは、「無意識と意識の交錯」に心のあらわれをみている、と考えた。友人の精神分析家が「精神分析家はたとえ爆弾が落ちてくるような状況であっても分析をしている(つまり環境ではなく、無意識と意識の交錯から現れる現象として問題を捉える)」とうそぶいていたことがあるのだが、精神分析というのは、無意識を措定し、そこを丁寧に見ることで“心”に奥行きを持たせ、人生に生じるさまざまな問題を扱うことができるようにした学問と言えるのではないか。

 かたや医師である齋藤さんは、心身医学会が自らを刺し殺すような「心身症」の定義を作り出してしまったことを嘆きながら、心と身体についてのエッセイを提示してくださった。明らかなのは、ここでの齋藤さんの心のスタンスは、あくまでも「身体との接点にあらわれる重要な何か」として“心”を捉えていることである。

 他方、文化人類学者である私は「身体と世界の接点」に“心”を見る。私は「身体とは、それ自体が心ではないか」と思うこともあるのだが、それは私の学問的背景のせいなのだということがよくわかった。“心”を「傾向性」として捉えるギルバート・ライルの理論がすっきりくるのも、そのせいなのだろう。
 したがって、このエッセイはもしかすると、心という言葉を使わず、お互いのスタンスをより明確に示すような言葉を選んだ方が良い場合もあるのかもしれない。というより、お二人のお話を聞いた結果、ますます“心”がわからなくなった。心って何?

森の中の一本道をゆくバックパッカーが一人。手前にラウンドアバウト交差点の標識
身体-心-世界-心-世界-身体-世界-心-身体…

 

心ならではの在り方

 さて、そんな私は昨日から、大塚伸一郎さんからご恵贈いただいた、C.G.ユングの『分析心理学セミナー』(みすず書房 2019年)を読んでいる。
 精神分析と哲学はいずれも人類学と関係の深い領域であるが、私はこの二つを――書物にはふれながらも――いつも遠巻きに眺めていた。一度踏み込んだらずぶずぶになって、出て来られなくなりそうな予感がしていたからである。しかし何のご縁か、この二つの領域があちら側からやってくるようなことが最近増えた。きっとこれは、「いい加減きちんと向き合え、というお告げに違いないと」と思い、おそるおそるページを開いた次第である。

 結論からいうと『分析心理学セミナー』。ものすごく面白い。なぜもっと早くにページを開かなかったのか、と思う。しかし他方で、その内容に驚いてもいる。率直に受かんだ言葉を言うと、ちょっとぶっ飛び過ぎてないですか?!
 ここで紹介されているユングのアクティヴ・イマジネーションの解説にはこうある。

たとえば「ヘビ」の姿が心に受かんできたら、そのヘビとともにファンタジーに留まり続け、そのヘビに対しパッシブに身を委ねたり、アクティヴに関わったりすることを繰り返しながら、無意識との対話を重ね、徐々に心の深みに降りてゆく。

『分析心理学セミナー――1925年、チューリッヒ』C・G・ユング(みすず書房 2019年)

 これを読んで私の頭に真っ先に浮かんだのは、シャーマンのおこなう「呪術」である。エスノグラフィはこのような話にあふれている。アクティヴ・イマジネーションは、適当にやると危ないので、きちんと訓練された専門家とともにやるべき、といったことも書いてあるが、これも「ちゃんとしたシャーマンの治療を受けないと病気が治らない」というのと同じではないのか?

 精神分析家は、これを十把一絡げに「呪術」と言われるのは納得がいかないだろう。おそらくこの問いに対しては、すでにいろいろな答えがなされているとは確信するが、お二人の先生は、精神分析と呪術を分かつものを何だと考えているのだろう? 私からの小さな問いである。

 

社会でのあらわれと在り方

 さて、もうひとつ最後に、齋藤さんのいう“心”に近いところから問いを投げたい。
 日本におけるHPVワクチン接種率の低下が問題視されて久しい。この問題で注目したいポイントは複数あるのだが、そのひとつは、対象者が接種後に不調を訴え、その不調が続いた場合、その不調の原因が“心”にあると語られがちなことである。

 実際にそういうこともあるのかもしれないが、他方で、この言い回しには暴力性も感じる。
 なぜなら、彼女たちの不調が心の問題に回収されるとき、そこには「それは本当の病気ではない」といったニュアンスが入り込んでいるからである。HPVワクチンの問題は、それ自体が多様な意味で深刻さを孕むが、それを通じて、疫学に回収しきれない問題に対する「コミュニティの向き合い方」を見渡すことが可能であり、またその際に、そのコミュニティのなかで“心”がいかなる存在・あらわれであるかを知る契機にもなると考えている。

 いかがだろうか。

[追伸]
生徒も学生もいないのに先生だけがいるのはどうも居心地が悪いので、敬称を変えさせていただきました。


磯野真穂磯野真穂(いその・まほ)

国際医療福祉大学大学院 保健医療学専攻看護学分野准教授
1999年 早稲田大学人間科学部卒業(スポーツ科学)
2010年 早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了
こころの分野は、文化人類学(医療人類学)
からだの分野は、ボクシング(ライセンス取得 2013年)
著書
『なぜ普通に食べられないのか』(春秋社 2015年)
『医療者が語る答えなき世界』(ちくま新書 2017年)
『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書 2019年)
共著:宮野真生子
『急に具合が悪くなる』(晶文社 2019年)
●磯野真穂 公式サイト
http://www.anthropology.sakura.ne.jp/