リレーエッセイ「こころとからだの交差点」

第一話 私のなかでの交差点

[岡田暁宜] 


 交差点は、二つ以上の道が交わる場所である。“こころとからだの交差点”とは、ひとりの人間において「こころの体験」と「からだの体験」が重なる心身の体験といえるかも知れない。あるいは、こころの専門とからだの専門が交わる領域(心身医学 psychosomatic medicine)やこころの病気とからだの病気の交わる病態(心身症 psychosomatic illness)といえるかも知れない。

《心身医学》をめぐる回想から始めよう。
 私の現在の専門は精神分析 psychoanalysisであり、私の精神生活と臨床実践の中心にあるが、私の始まりは《心身医学》であった。私が現在まで約20年間、臨床心理士養成系の大学院で「心身医学特論」というタイトルの講義を続けているのは、その名残である。
 医学は、経験科学のなかの自然科学に位置づけられ、医学教育から臨床医学に至るまで、要素還元主義に基づいているといえるだろう。要素還元主義では、ある現象をさまざまな要素に分解し、それぞれの要素、あるいは要素と要素の関係を理解することを通じてある現象を理解するだろうし、ある現象と他の現象の関係を通じて新たな現象を理解するだろう。
 医師は、医学教育のなかで、要素還元主義を徹底的に身につける。因果関係や相関関係などの考え方や、概念・疫学・症状・病理・診断・治療・予後などからなる疾患理解は、要素還元主義に基づく医師の臨床思考の基本である。
 だが、私自身の経験で言えば、医師になり、臨床医としての経験を積むにつれて、主訴や苦悩を含む患者の“病気”が要素に還元できない臨床状況や、たとえ要素に還元して理解することができたとしても治療に結びつかない臨床状況に、しばしば直面することがあった。今から思えば、それらは、私にとって、医学と医療、理論と実践、理想と現実などの「間」の体験といえるかも知れないし、医学の限界の断片を体験したのかも知れない。私は、身体疾患で苦しむ患者の“こころ”を見ずに患者と関わることができなかった。そして内科に代表される身体科において、患者の“こころ”が置き去りにされていることに、私は違和感や嫌悪感があった。
 今から思えば、当時の私のなかには、R.デカルト〔1596-1650〕の心身二元論への違和感があったのである。私にとっての《心身医学》は“こころ”を置き去りにした身体医学へのアンチテーゼであり、いわゆる〈全人的医療〉から始まったといえる。内科-心療内科の研修医時代の私は、G.エンゲル〔1913-1999〕の「生物心理社会的医学モデル bio-psycho-social medical model」や「心身相関」という概念に傾倒していた。〈全人的医療〉は私にとっての第一の《心身医学》といえる。

 その当時、心身相関のメカニズムとして神経-内分泌-免疫系が注目されており、私はそれらを追求するために大学院に進学した。私は大学院でヒトの自律神経制御の研究に取り組んだ。特に心拍変動 heart rate variabilityの周波数解析による、ヒトの迷走神経活動の分析をおこなった。それらは「生物学的心身医学」であり、その研究方法はまさに〈身体分析 somatoanalysis〉といえるだろう。生理学に基づく身体分析は、私にとっての第二の《心身医学》といえる。
〈身体分析〉の過程において、私の学問的関心は、徐々に線形世界から非線形世界へと変化し、やがて「生物心理社会的モデル」を一つのシステムとして捉えるようになっていた。私にとってこれらの研究は、科学的真実の探究としてとても魅力的であったし、現在でも私の研究活動の基礎にある。しかし、これらの研究を追求すればするほど、日々の臨床から遠ざかるようになり、結局、実際の心身医療と直接結びつくことはなかった。私は、医師として、臨床と研究、こころとからだが引き裂かれていったのである。

「直線と曲線がフュージョンする名古屋駅前」

 大学医学部の臨床系の教室には、医局制度があり、教授を頂点とするヒエラルキーのなかで臨床や研究がおこなわれていた。そのため、教授が交代すると助教授以下の人事が変わることは珍しくなかった。私は、当時の教授が定年退官したあと、自分の思う臨床と研究を続けられなくなり、医学部の〈社会医学〉講座に移籍することになった。そこで、偶然にも学校保健や産業保健における研究と実践に触れる機会を得た。教育委員会との関わりや日本医師会の産業医認定の取得などは、その当時の実践経験の産物である。〈社会医学〉は、私にとっての第三の《心身医学》といえる。
 ところが社会医学では、アンケートや統計を用いた大規模調査を伝統的な方法としており、私には、社会医学の方法が「森を見て木を見ず」という姿勢に思えて、私はあまり馴染めなかった。その一方で、以前の身体分析のような「葉を見て木を見ず」という姿勢にも私はもはや馴染むことはできなかった。私は、医師としてのアイデンティティの危機にあったのである。

 以上は、私の表舞台における医師としての歴史であるが、私には、医師としての舞台裏における歴史があった。舞台裏とは、それまで主な活動の場であった大学の外における「個人的な修練」という意味である。
 それは、心療内科で経験した、心身症臨床や思春期-青年期臨床における「精神分析」をめぐる歴史である。そのなかには、F.アレキサンダーによる Holy Seven Psychosomatic Diseases やM.バリントによるバリントグループ などがあった。私は研修医時代に、非常勤で病棟回診や外来診療や夜間当直をしていたある精神科病院でG.エンゲルの『心身の力動的発達』という本に出会った。そこで私は、幸運にも、断片的ではあるが「精神分析」というものに触れる機会や、統合失調症者の身体の問題について考える機会を得ることができた。それらの臨床経験を通じて、私は研修医時代に日本精神分析学会に入会し、その後、私自身の内的なものが触発されて、大学保健センターに勤務しながら、「無意識」や「転移」を扱う精神分析的精神療法や精神分析の訓練を受けることになった。私の医師としての最初の十年の舞台裏における臨床と訓練の体験が、その後の私の臨床医としての表舞台に移り変わったことになる。〈精神分析〉は、私にとっての第四の《心身医学》といえる。

 私にとってのこころとからだの交差点である《心身医学》は、以上のように主に四つの領域があるといえるが、心身医学という言葉を最初に使用したのがウィーンの精神分析医であるF.ドイチェ〔1922〕であると言われることを考えると、私の心身医学は精神分析という源流へと回帰しているのかも知れない。


岡田暁宜(おかだ・あきよし)
名古屋工業大学保健センター教授
1967年生まれ、名古屋市立大学大学院医学研究科修了、医学博士
愛知教育大学・准教授、南山大学・教授を経て現職
精神分析協会・正会員
2010年、精神分析学会山村賞受賞